クリスチャンの結婚・思わぬ展開に



喜びよりも、不安な気持ちが心の奥底に見え隠れする結婚について。
信者と未信者の結婚は成り立つのか。
向いている方向が違う者どうしの結婚というものは成立するのか、
・・・というふうに書きすすめて来たわけです。

前回は、クリスチャンであること、
また未信者であることを棚上げにしなければ、
ことは進まないのではないかと考えました。

聖書は次のように語っています。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)

向いている方向が異なる者どうしの結婚ですから、
向きが違うことによって引き起こされてくる問題を問題としないことが前提になるものと考えて・・・・。

その違いを乗り越えて、
その違いを問題にしないで事に当たらなければ、
前に進まないというふう考えて来たのですが、
ここで思わぬ展開が待ち受けていました。

しかも、意外な落とし穴が待ち受けていたのです。

「クリスチャンしていていいから・・そのかわり・・・。」
「クリスチャンしていていいから・・・」、
宗教していいから・・・キリスト教の信者であることを問題にしないから、
冠婚葬祭をはじめとして、世間的な風習や習慣や、
慣習に従って事を進めて欲しいという要請が未信者側の家族や親族から出て来たということです。

ここで問題なのは、
クリスチャンであるということは、
クリスチャンであることによって、その世間的な風習や習慣や、
慣習というものから解き放たれているということが明らかにされていないということです。

すなわち、この世で負っていたすべての重荷から解放されているということなのです。

イエス・キリストは、十字架の死による贖い(あがない)のわざ、という出来事により、
私たちの負っている重荷を、身代わりとなって負ってくださったということであり。
その出来事によって、イエス・キリストご自身こそが、
私たちの負っている重荷を問題としないと言われたのです。

負っていた重荷を、イエス・キリストによって降ろしたということなのです。

ですから、「クリスチャンしていていいよ・・」と言われても、
それは負っている重荷というものを降ろしたことにはなりません。
それどころか、新たな重荷を負わされるということになるのです。
それは決して救いとはなり得ません。

以前は世俗的なものに従っていました。
世俗的であるがゆえに神の前で罪を犯すこととなり、
それに気付いて、
神の前で悔い改め改心し方向転換したのです。

心の向きを変えた以上、
世俗的なことに捕らわれず自由であるということです。
つまり世俗的なことに強制されないということです。

言い替えれば、
信仰というものは、いかなる人も強制しないということです。

この点を未信者側は理解していません。

クリスチャンというものは、
どのように考え、どのような姿勢にあるのかということが認識されていないのです。

ですから、それをも棚上げにしなければ話しは進まないはずなのに。

ここになって、クリスチャンであることを問題にしないから、
世俗的な慣習に従って欲しいという要請が見えかくれしてきたのは、
なぜにクリスチャンなのかということを鮮明にしなかったために起きてきた問題であるかもしれません。
福音が解き明かされていないからなのです。

クリスチャンというものは、
世俗に対して、どのように考え、
どのような姿勢であるかということを鮮明にしなかったために起きてきたのです。

「宗教していていいから、だから、冠婚葬祭にはじまる祭りごとは、すべて従来通りに従って欲しい・・。」

ここにこそ誤解が潜んでいたわけです。
クリスチャンこそ、私たちの日本的な民俗的な冠婚葬祭にはじまる祭りごとに対して、
クリスチャンだからこそ明確な態度を示すものだという認識が、
未信者側になかかったのです。

キリスト教信仰というものは、
この世のいっさいの隷属的な関係を認めないということです。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章6節・新共同訳聖書)

キリスト教がたったひとつ隷属関係を認めるのは、
それは「神の奴隷」となる場合です。

キリスト教というものは、
主イエス・キリストに聞き従い服従する信仰なのです。

この世のいっさいの隷属的な関係を認めないということは、
結婚にさいしても、キリスト教の結婚観というものは、
当事者二人の間に存在するすべての隔たりを排除するという最も個人的な事柄であるということになります。

結婚というものは、当事者どうしの自由な決断に基づき、
人間として、二人の人間の一致ということが問題なのです。

決してお互いがハードルであってはならないのです。

「それゆえ、人はその父と母と離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」という言葉は真実だからです。

当事者、二人だけの問題だという認識が最も大切なのです。

日本では、冠婚葬祭の祭りごとが親戚付き合いや、
ビジネス関係にとって最も大切な要素です。
その祭り事によって、小さな集団の秩序や結束を保ってきたのです。

すなわち、一家一族一門に属するということは、
決してひとりだけぬきん出ることを許しません。
ですから、決してぬきん出ないように足首を結び合わせるということをするわけです。

片や、キリスト教は、結婚というものを、
民族や民俗の秩序から区別するものです。
キリスト教の言う結婚とは、
神の前でひとつになるということですから。

話しは、なんだか、ごじれてきたようです。

どうも人間二人だけの問題から、
一家一族一門を巻き込んできたようです。

日本の結婚観というものは、
その基に一族と一族との和合という伝統的な価値観が横たわっているからです。
結婚というものによって、
外からよそ者を迎えることによって自分たちの築き上げてきた構造を決して壊されたくはないのです。

聖書は明確に語ります。
「この自由を得させるために、
キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。
奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」

(中略)
「もし、割礼を受けるなら、
あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章1〜2節・新共同訳聖書)

この言葉は、クリスチャンにとっては、励ましであり慰めでもあります。
しかし未信者にとっては愚かな言葉としてしか受け取れないでしょう。

イエス・キリストの十字架の出来事が、
福音が解き明かされる機会のごくごく少ない日本の現状は、
キリスト者の営みに大きな影響を与えるのです。


北白川 スー

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Wrote up on February 19, 2016.