励ましではなく悔い改めを



東日本大震災から、すでに2年以上過ぎてしまった。
被災地の多くの人たちは、いまだに苦しみの中にある。
キリスト教の教会も信徒も被災した。
日本のキリスト教界は、
さまざまに支援活動を行なってきた。
しかし、復旧・復興は、
はかばかしく進展してはいないのが現実である。

震災では多くの命が失われた、
残された家族は、
亡き人の思い出に生きることによって力を得ているとも言う。

そのような中にあって、
キリスト教の教会の果たすべき役割とか働きは・・・。
苦しんでいる人たちを励まし・・・、
被災した人たちと共に苦しみ、
痛みを共有し、
ひとりぼっちじゃないことを伝えることだと・・・。

しかし、
キリスト教の教会は、
被災者を励ますことが、
その働きの主だったところなのだろうか。

津波による被害であれ、
原子力発電所の脆弱性や、
信頼性の無さは以前から言われていた。
今や、自らが明らかとしたのです。
東日本大震災の被害は、
起こるべくして起きたと言ってもいい。
人災なのである。

津波に備えた地域社会の営みであったなら、
多くの命は失われずに済んだであろう。
原子力発電に頼らないエネルギー政策であったなら・・・。
戻ることの出来ないふるさとには成らなかったはずである。

キリスト教の教会は、
被災した人たちと苦しみを共有し、
彼らに希望があることを伝えるべきだと・・・・・と言われている。
しかし、
その苦しみとは、何か・・・・。
その希望とは、何か・・・・・。

すでにイエス・キリストは、ののしられ、辱められ、苦しみ、ムチ打たれ、
十字架による死にまで従われたではないか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
つまり、キリストの福音は、
私たちは弱く愚かな存在であることを明らかにしている。
だから、神に聞き従わなければ生きていけないのである。

自らのやり方に過信せず、
自らの考えに信頼を置かないなら、
苦しみにはあわなかったかもしれない。

神の言葉に聞き従い備えていたなら、
多くの人の命が失われずに済んだことをあらわしている。

それが、私たちにたいする主なる神の御心ではないのか。

私たちがあくまで主なる神の御心に聞き従っていたなら。
多くの命は失われずに済んだのではないだろうか。

「 あなたがたは、この世と妥協してはならない。
むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、
何が神の御旨であるか、
何が善であって、神に喜ばれ、
かつ全きことであるかを、
わきまえ知るべきである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・12章2節・口語訳聖書)

教会も悔い改め、
被災した人たちも悔い改めなければならない。
神に聞き従っていたなら尊い命を犠牲にすることなどないことを。
すでにイエス・キリストは十字架にその命をささげられたのだから。


北白川 スー

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Wrote up on July 22, 2013.