罪について教えない日本の教会



少しは極端な見方かもしれませんが、
あながち的を射ていないとは言えないかもしれません。

日本のキリスト教の教会ほど、
罪について教えない教会は、他に例を見ないかもしれません。
罪の問題を正面から取り組むことを避けて通ることさえあります。
聖書・バイブルは、
罪の問題を人生観として承認することを求めるわけですが、
どういうわけか日本の教会は、信徒にたいして、
人間には、善と悪との闘いが日常的に存在していることを教えず、
人間の生まれながらに負っている罪について語らず、
クリスチャンとして、日本の社会生活の中で、
冠婚葬祭の習いなどの、
してよいことと、してはならないこととを教える程度に終始します。
聖書・バイブルが言うところの罪について、
人間の本性的な罪にたいして闘うことさえ語ろうとはしません。
教会生活においても、
教会奉仕という名の行為が、
心を清らかにして、
クリスチャンとしてふさわしい”行ない”という善い行ないが、
クリスチャンとしての標準的な規範としてとらえられています。

「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、
御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく、
あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときも、
わたしは罪のうちにあったのです。」

(旧約聖書・詩篇・ダビデの賛歌・51偏3〜7節・新共同訳聖書)

なぜか、日本のキリスト教の教会は、
ひとりの例外もなく、すべての人間は、
罪深い存在であることを教えないのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が指し示しているのは、
ひとりの例外もなく、すべての人は、神の前で罪人なのです。

仮にも、人間は、生れつき善であり、
自分の悪い部分と闘う必要はないとするなら、
イエス・キリストの十字架の出来事は意味を失ってしまいます。

神に背いた罪人だからこそ、
イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いということが、
福音として光を輝かせるのです。

日本人は、自己の欲や望みの実現や満足や達成を、
決して罪悪とは考えません。
自分が望んでいる事柄や状態が正しい義なるものだとさえ信じています。
自分の可能性を高く評価しますから、
自分の望みや願いを達成することこそ、
素晴らしく美しいことだとさえ信じています。
決して罪を犯しているとは考えないのです。


北白川 スー

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Wrote up on January 04, 2014.