罪について語らない教会
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なぜか罪について解き明かさないのが日本の教会かもしれません。
罪について語るとは、
人間の本性について語ることを意味します。
人間の、生まれながらに負っている性質について語ることです。
人間の生まれながらの性質を語らなければ、
“人間のすべて”が明らかにはならないのです。
人間の本性を語ることは、
私たちの、さまざまな思いや言葉や行為や行動に、
根本的に影響を与えているものに明らかにすることなのです。
聖書・バイブルの言葉は、
社会の欠陥は、人間性の欠陥に、
その原因があることを明らかにしているのです。
私たちが常に突き当たっているさまざまな問題の、
その根本的な原因を明らかにしているのです。
私たちの背景にあるものを明らかにしているのです。
私たちのあらゆる行為の源にあるものを明らかにしているのです。
私たちは、社会のシステムや構造を変えることによって、
不安はなくなると考えますが、
聖書・バイブルの言葉は、
社会のシステムや構造に問題があるとは語りません。
その社会を形作っている人間にこそ、
そもそも問題があると言っているのです。
私たちは、堕落し、常に罪深い存在なのです。
だから、ルールやシステムや構造に頼るのではなく、
ひとりひとりの人間の心に頼るべきだと。
日本の社会は、
人間は、もともとけがれのない状態で生まれてきますが、
社会の悪い環境によって、道を誤りだめになると考えますが、
聖書・バイブルの言葉は、
人間は、生まれながらに堕落しているのだと語るのです。
信仰を持つとは、自分を義とするものではありません。
その反対で、人間はもともと堕落しているから、
神の言葉に聞き従わなければ、
人生を歩むことはできないとものと考える行為です。
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。既に指摘したように、
ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。・・」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9〜12節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on May 16, 2015.