信仰とは
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宗教とか信仰というものを、
自分の目的の追求のために用いようとするならば、
自分の目的を達成するための道具のように考えるなら、
自分の地位や立場や名誉などを守るために利用しようとするならば、
それは、ご利益信仰の他のなにものでもありません。
クリスチャンであっても、信仰している動機がそうであるなら、
それは、まぎれもなくご利益信仰そのものなのです。
では、キリスト教の信仰を考えてみますと。
信仰とは、人間の、生きる過程の中において、
人間の存在と共にあるものであり、
信仰することが、目的とはならないものなのです。
そして、人間の現実に、もっとも近くにあり影響を与えているものなのです。
さらに、あらゆる学問が、調べ、また、たずね求めようとしている真理にたいして、
その答えを与えるものなのです。
しかし、多くの日本人は、そうとは知らず、
いや、そうではないとさえ思っています。
だから、信仰している者にたいして疑いの表情さえ見せるのです。
なぜなら、信仰とは、おろかなものだからです。
そのように見えるものなのです。
「 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、
神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、
宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章21節・新改訳聖書)
2000年前、
何ひとつとして罪を認めない、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
罪人として十字架にかけられ、処刑され、
すべての人の罪を、
その命をささげることによって贖って(あがなって)くださったという出来事を・・・。
そして、葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事を・・・。
どうして、なんとも神話のような作り話をクリスチャンは信じているのだろうか・・・と、
日本の多くの人たちは思っています。
すべての人の罪、人の罪とは何でしょうか。
私たちの思いに、言葉に、行為や行動に強く影響を与え、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして過ちを犯し続けているもの、
その原因となっているものこそ、
生まれながらに負っている罪深さのことなのです。
つまり、私たち人間は、
ひとりの例外もなく、常に迷いの中にある存在なのです。
逃げることも救われることもできない状態の中にあるのです。
そのような状態にあることを認識して、
贖い主(あがないぬし)であるところのイエス・キリストに、
その語りかけに聞き従って生きていこうする態度や姿勢・・・、
まさしく、それが信仰なのです。
信仰とは、信頼なのです。
イエス・キリストに信頼して、
聞き従って人生を歩もうとする姿勢そのものなのです。
決して、自分の目的の追求のために信仰しているのではありません。
「 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装ってくださるのだから、
ましてあなたがたに、
よくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、あなたがたの天の父は、
それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。」
(新約聖書・マタイによる福音書・6章30〜34節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 02 August 2011.