神の恵みと、ご利益信仰


 キリスト教の信仰だって、所詮、ご利益信仰ではないかと、

 お叱りを受けることが多々あります。

 たしかに、信仰を利用して、

 自分の必要を満たそうとするなら、

 それは、ご利益信仰の域を出るものではありません。

 しかし、聖書・バイブルは、

 自分の必要を満たすことなど二の次だと語っているのです。


 「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

 それはみな、・・・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 だから、明日のことまで思い悩むな。

 明日のことは明日自らが思い悩む。

 その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章31〜34節・新共同訳聖書)


 創造主なる神が、必要と調和とに整った世界を造られたにもかかわらず、

 その世界を壊してしまったのは私たち人間なのです。

 聖書・バイブルは、

 “ 神の国とその義をまず第一に求めよ ”・・・・と語っているのです。

 " 神の国 ”と" 神の義 ”・・・・・。

 私たち人間は、創造主なる神によって造られたのです。

 しかし、最初の人間アダムが、その神に背いてからというもの、

 創造主による影響力を失い、また離れてしまったのです。

 さらには、被造物としての格を決定付けていたものまで失ってしまったのです。

 私たち人間は、目的を持って造られたのです、創造主によって。


 「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、

 これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。

 神は自分のかたちに人を創造された。

 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

 (旧約聖書・創世記・1章26〜27節・口語訳聖書)


 しかし神に背いてしまった最初の人間、

 それ以来、あとに続く人間たちは、

 ことごとく神にたいする罪の中を歩まなければならなくなったのです。

 そしてその罪にたいしては、

 やがて必ずやって来る、審判の時、

 裁きが待っているのです。

 生きている人も、かつて生きていた人も。

 しかし、創造主なる神は、

 被造物にたいして哀れみを示されたのです。

 いや、究極の選択と言ってもいいのです。

 神の裁きにたいして、

 神ご自身が救いの手を差し伸べようと決断されたのです。

 それが、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

 裁かれるのは神・・・。

 救ってくださるのも神・・・・。

 その救いの出来事こそ、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

 その出来事を信じる者は、

 神への罪を赦され、

 再び、永遠の命へと移されるのです。

 すべての必要が満たされていた、

 最初の創造の状態へ戻されるのです。


北白川 スー

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Wrote up on 28 January 2011.