救われていますか
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教会でよく耳にする話ですが・・・。
長年クリスチャンをやっていても、
”救われている ”という実感がない・・・とか。
”救われた確信が持てない ”・・・とか。
確かにそうだと信じることができないと口にする人がいます。
キリスト教が言うところの、
救いとはどのようなことなのでしょうか。
何から救われなければならないのでしょうか。
それは、神の怒りの裁きから救われなければならないのです。
”神の怒りの裁きからの救い ”とは、
”神との和解 ”ということです。
神と和解しなければ、神の怒りの裁きから救われないのです。
多くの人の「救い」という理解は、
何か大きな困難とか苦境から、
苦難や災難から、
自分を苦しめている人間関係から、
解き放たれることだと考えています。
キリスト教の信仰を持ったものの、
自分を取り巻く状況に、なんの変化も見られないから、
救われた気持ちがしない・・・・。
自分は間違ってはいないという周りからの言質や確認が取れない。
自分の正当性や自己肯定が約束されない・・・。
これでは、見当違いということになりそうです。
イエス・キリストの十字架による贖罪という出来事。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
つまり、すべての人は、神の前では罪人だということです。
私たち人間は、生まれたときから罪深い性質を持って生れてくるのです。
これを ”原罪・ゲンザイ ”と言います。
その本性的な性質が、
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
私たちの日常の苦しみにさえ、その起源に原罪があるのです。
それが、私たちの現実の姿なのです。
だから、”救われるために何をしなければならないのか ”・・・・、
(新約聖書・使徒言行録・16章30節・参照)
ということになります。
イエス・キリストの十字架の出来事と、
原罪についての理解がなければ、
神との和解、
神の怒りの裁きからの救いについても理解することはできません。
神にたいする罪には、裁きが待っています。
ひとりの例外もなく、
私たちは、神の裁きの座に立たされることになります。
やがて来る、必ずやってくる神の怒りの裁きのとき。
その神の怒りの裁きからの救いが、
キリスト教の言うところの ”救い”なのです。
創造主なる神によって備えられた、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活において備えられた救い。
これこそが救いについての核心なのです。
キリスト教の信仰において中心となる大事な部分なのです。
神の怒りの裁きから救われるために、
神が私たちのために備えてくださった、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活・・・を信じること。
このイエス・キリストの生と死と葬りと復活という出来事を、
理解し承認し受け入れることによって救いは達成されます。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)
そのようにして始めて、
神の私たちにたいする神の愛を実感することができるのです。
救われているという確信は、
神と和解し、神に愛されている・・という確信でもあります。
主イエスに愛されているという実感がなければ、
救われているという実感も伴いませんし、
喜びの中で生きて行けるということも実現しないのです。
神との和解ということを理解し受け入れたうえで、
知性と感覚や感情において、イエス・キリストと共にあり、
共に暮らしを営んでいるという意識こそ、
イエスによる、はげましであり、なぐさめであり、
恵みを受けているという言葉であらわされるものなのです。
そこには聖書の言葉に裏付けられた約束があるわけです。
救いの確信こそ、
人格的な神と共にあるという確信そのものなのです。
そうでなければ、
救われているという喜びの中にある人生を送ることなどできないでしょう。
イエス・キリストの十字架の贖罪という出来事に裏付けされた信仰による確信なのです。
イエスの十字架の出来事を理解せず、裏付けされず、
十字架の出来事が聖書が記述する通り事実であり、
成立するものだと確信することができないのなら・・・。
人格的な主イエスとをとらえることができない信仰があるとすれば、
その信仰は、風に吹かれる落ち葉のように、
よりどころのないものなのです。
その人の視線の先にはいったい何があるというのでしょうか。
「まことにわが家は、このように神とともにある。
とこしえの契約が私に立てられているからだ。
このすべては備えられ、また守られる。
まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。」
(旧約聖書・サムエル記・第2・23章5節・新改訳聖書)
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on November 12, 2013.