自分の十字架を負って



よく使われ、よく知られた、
”自分の十字架を負って・・・・”という言いまわしがあります。
この言葉は、聖書・バイブルに記述されているものです。

「 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・10章38節・新改訳聖書)

この、自分の十字架を負う・・とは、
病気とか障害とか生まれとか境遇とか、
重い荷物を背負っているような、
何か苦難に満ちた重い負担のことを言っているのでしょうか。
一般には、そのように思われているようです。
しかし、真の意味は、そうではないのです。
十字架そのものの意味を知らされていないか、
それとも、本当の意味を誤解するような説明がなされてしまったか・・。
または正確な十字架の意味をキリスト教の教会が解き明かしてこなかったのかもしれません。
まぎれもなく十字架とは処刑の道具です。
肉体的な懲罰の道具なのです。
罪を負っている者が、その罪を償うために十字架にかけられる。
死に価する罪を犯した者へ与えられる刑罰の道具なのです。
その十字架を、私たちに負うようにとイエス・キリストは言っているのです。

「 罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)

私たちがする ”自分の十字架を負う”という普段の使い方は、
同一の表現の素材ではありますが、
本来の意味とは、かなりかけ離れているのかもしれません。
イエス・キリストは十字架にかけられ処刑されました。
この出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
私たち人間は、最初の人間、アダムの神への背き罪のため、
アダムに続くすべての人間は、
ひとりの例外もなく神にたいして罪を負うこととなったのです。
それを”原罪・ゲンザイ”と言います。
そしてその罪は、償われなければならないものなのだということです。
そうでなければ・・・、
この世界が終るとき、必ずやってくる世界の終わりのとき、
それは、最後の審判のとき、
私たち人間は神の裁きを受けなければなりません。
生まれながらに負っている罪が償われないなら、
私たちにたいする判決は有罪ということになります。
有罪判決は、地獄へ、永遠に続く苦しみの中に入れられるのです。
無罪なら、永遠に続く命へと移されます。
イエスが私たちに代わって、私たちの罪をその身に負って、
代わって十字架刑を受けてくださったのです。
そのイエス・キリストの十字架の出来事を受け入れ承認することによって、
私たちの罪は取り除かれることになります。
私たちの罪は赦され、判決は無罪となります。
自分の十字架を負うということは、
自分は罪人であることを認識し、
その罪をイエス・キリストが、
代わって十字架にかかり贖ってくださったと認識し受け入れるならなら・・・。
ということを意味しているのです。

「 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、
神に対して生きているのだと考えなさい。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章5〜11節・新共同訳聖書)

本来なら、私たち人間が十字架にかけられるところを、
私たちに代わって、イエス・キリストが十字架にかけられたのです。
罪深い人間ではなく、罪を認めない神のひとり子イエスが・・・。
神にたいする罪を償うには、
罪を取り除くには、人間の死ではだめなのです。
罪を認めない、けがれのないイエスだけが可能なのです。
私たちではだめなのです。

「 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、
決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。
しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、・・・・」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・10章11〜12節・新共同訳聖書)

私たち人間は罪深く愚かで弱い存在だということです。
罪人だということです。
その罪人が、神の前で正しい者として立つことができる道を、
イエス・キリストは、ご自身を十字架にささげることによって、
私たちの罪を贖い、罪を取り除いてくださったのです。
イエス・キリストを受け入れ信じる者は、
神の怒りの裁きから救われることとなったのです。

「 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。
従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、
神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、
もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。
ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・10章1〜5節・新共同訳聖書)

自分の十字架を負うとは、とても難しい事柄なのです。
なかなか理解できるものではありません。
人間の知恵や力では、救いは不可能だということです。
私たち人間は十字架を負い続けなければならないのです。
・・・キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。・・・・


北白川 スー

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Wrote up on November 22, 2012.