信仰のダブル・スタンダード



日本のように、クリスチャンであることが少数派の社会では、
社会の価値観とキリスト教の価値観とを、
異なる二つの基準を、モノサシを、
たくみに使い分けていかなければ、
キリストへの信仰も日常の暮らしも、
保ち続けることができないことになります。
しかし、実は、日本のクリスチャン自身が、
二つの異なる基準・ダブルスタンダードの中に生きているとは、
認識していないのではないだろうかと疑わされます。

異なった二つの基準の中に、
日常の暮らしを築いていくことほど苦痛なものはないはずです。
立っているところが異なれば、
当然、混乱も、行き違いも起きてきます。
日本のクリスチャンが現実に経験している苦しみや悲しみや思いわずらいというものは、
実は、二つの基準の中に生きていることにこそ原因があるのだということに、
気付いていないところから起きているいるということに気付いていないのです。
日常生活とキリスト教生活とが別々にあって、
それをうまく使い分けようとしている・・・・。

むずかしく言えば、
神の及ばない領域を自分の所有として持っているということでしょうか。
神には関係のない領域があって、主権は私にあると。

あなたは、自分の生活の中に神を見出していますか。
あなたは、生活のすべての領域に主なる神をむかえ入れていますか。
”神と共に在る ”という意識で日々の暮らしを営んでいますか。

「 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、
生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、
実の熟するまでにならない人たちのことである。」

(新約聖書・ルカによる福音書・8章14節・口語訳聖書)

キリスト教の信仰を持ち、礼拝にも出席し、
神への讃美をささげ、説教も聞き・・・・。
しかし、日々の暮らしの色々なことに心配や不安な気持ちが大きく、
あれやこれやと思いわずらい、
何かと物を欲しがり、
職場のわずらわしい人間関係や、
仕事のことや、商売のことで頭がいっぱいになり・・・。
教会を出たとたん、信仰どころじゃなくなってしまう・・・。
・・・正直なところです。

では、キリストの基準よりもこの世の基準のほうが勝っているのでしょうか。
どちらが、あなたの心の中を埋めていますか。

「 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、
御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」

(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・2章16節・新改訳聖書)

暮らしの中にあるもの、
物や豊かさや、暮らし向きの自慢や、
ハイ・テクノロジーという便利さに信頼を寄せようとする人間の姿勢というものは、
人間に何をもたらしたのか・・・・、
よく考えなおしてみなければなりません。
それは、地獄へのシナリオではありませんか。

「 この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、
心の一新によって自分を変えなさい。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・12章2節・新改訳聖書)

美しく調和の取れた自然を創造された神が、
その神が望まれていることは何でしょうか。
その自然を壊しているのは人間なのです。

自分がかかわっている問題に悩み不安を覚えている人は、
その問題が解決されるのは、
自分の思う通りに生きなければ幸せになれないと考えるのではなく、
そもそも、自分の思う通りに生きなければ幸せになれないと考えることが、混乱の原因なのです。

私たちに求められているのは、
恣意的な発想ではなく、
根源的な発想に立たなければならないのです。

父なる神の前に進み出て、
すべてをつかさどる神にゆだねるしか方法がないことを知らなければならないのです。

キリスト者は、人間のすべての営みの中で、
神の御心を明らかにすることが、
キリスト者としての務めなのです。

それが、神の怒りの裁きから、
被造物としての人間を救う、
ただ一つの方法なのですから。

暮らしのすべての領域に主なる神を迎えること・・・。
この日本では、忘れ去られてしまっています。


北白川 スー

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Wrote up on November 27, 2013.