避けては通れないテーマ「原罪」
キリスト教を考えるとき、または「福音」を考えるとき、
避けては通れないテーマがあります。
”原罪 ”・ゲンザイ・つまり、”ふだんは隠れていて見えない生まれながらに負っている罪 ”のことなのです。
肌の色や言葉が違っていても、どのような人であっても持っている生まれつきの性質。
すべての人間には原罪があるという、
生まれながらに背負っている罪深さという性質・・・。
人間の本性について考えなければ、
キリスト教は、人間についてのこの考えを前提としなければ、
教会そのものも、また信仰についても成り立たなくなります。
私たちの日常というものに、原罪という生まれながらに負っている性質が、
思いとなって、言葉となって、行為となってあらわれいるのです。
ときどき罪を犯すから罪深いのではなく、
もとからして罪深い存在なのだということです。
ですから、”罪の赦し”についても”救い”についても、
この前提なくして考えることはできません。
神のひとり子であるイエス・キリストがこの世界に生まれたということは、
この世界が、神の目から見て堕落しているからなのです。
この世界、そして、私たち人間が、
苦しい立場に追いつめられ、
そこから逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
神のひとり子であるキリスト・イエスが、
つまり”メシア・救世主”として、
この世界に生まれて来る必要などないわけです。
このテーマがあやふやにされたり、説明されなかったり、
取り上げられないなら、
キリスト教はキリスト教でなくなってしまうのです。
「もし自分のしたくないことをしているとすれば、
それを行っているものは、もはや私ではなく、
私のうちに住みついている罪なのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・7章16〜17節・新改訳聖書)
私たち人間がもとから正しい存在なら、
絶対的な至高の存在である、義なる神の存在は意味を持たなくなります。
正しさは神にあり私たちには無いのです。
いくらもがいても義は私たちにはないのです。
ただ神にたいする信仰によってのみ、
神にたいする信頼だけが、
私たちの義を約束されているにすぎないのです。
「信仰による義人は生きる。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章17節・新改訳聖書)
(旧約聖書・ハバクク書・2章4節・参照)
神に従う人は信仰によって生きるのです。
人間のみにくいニュースにこと欠かない今日このごろです。
「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、
もはや私ではなく、
私のうちに住む罪です。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・7章20節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 07 November 2008.