クリスチャン・ライフこそエコロジィーそのもの
クリスチャンは、質素で謙遜で敬虔で・・・・、
むだをはぶき、簡素な生活に甘んじることを良しとし、
つねに、この世界を造られた創造主たる神と向き合い・・・、
自分を低い者として万事につけ控えめな暮らしや態度でのぞむ・・・、
酒もタバコもやらない・・・・。
でも、つきあいの悪い人たちだと、まあ色々と評価されますが、
どちらにせよ、見方を変えればエコロジィーな暮らしを目指しているようです。
はっきり言って、まさしく経済よりも環境なのです。
経済の前に環境を考えるのがエコロジィーであるわけですが、
キリスト教の信仰とは、先ず、この世界を造られた父なる神と、被造物としての私たち人間との関係を考えようというわけですから。
キリスト教の信仰は、人間の罪深さを明らかにし、この世界を造られた父なる神の愛を明らかにします。
人間の本性的な罪深さを明らかにするのです。
生まれながらに持っている性質を明らかにするのです。
私たち人間は、思いにおいて行為において、また言葉において、
自分にたいして、人にたいして、この世界を造られた父なる神にたいして罪を犯し続けているわけです。
身のまわりを見わたせば、自分自身を含めた私たち人間の行為の愚かしさを見ない日など1日たりともありません。
クリスチャンと言えども、クリスチャンになった途端にすべてが善になったのではありません。
自らの罪深さを自覚し、愚かで弱く不安定な自分を自覚して、
つねに神と共に歩むことによって、
人生を支えて行こうするのがクリスチャンとしての生き方なのです。
人間が、弱くて愚かな存在になった原因もありますし、
結果としての現在があるわけです。
しかし、それだけでは救いはありません。
この世界を造られた神はとこしえに聖く善であるわけですから、
弱く愚かで罪深い私たちを見過ごしにされるはずがありません。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・口語訳聖書)
私たちが生まれながらに持っている罪深さというものの本質を十分に理解し、
見分けることが大切になってきます。
それを気付かせるのが、イエス・キリストが十字架の上でその命を落とされ、
葬られ、三日の後に復活・よみがえられた出来事なのです。
この出来事こそが、この世界を造られた父なる神と、
被造物としての私たち人間との関係を明らかにしているわけです。
私たちはあまりにも自己中心的なので、
父なる神が差し出しておられる愛の手を忘れてしまったのです。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることに固執すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
そのありさまは人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえ、神は彼を(キリスト)高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、
栄光を父である神に帰するためである。」
(新約聖書・ピリピの信徒へのパウロの手紙・2章6〜11節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 10 June 2008.