神との思いがけない出会い
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学問の神であったり、商売繁盛の神であったり、
縁結びや安産の神であったりと、
さまざまな神々を信じている多くの日本人の中で、
唯一の神を、天地万物を、私たち人間をも創造された、
ただ一人の神を信じるキリスト教に改宗する人は多くありません。
キリスト抜きのチャペル結婚式とか、
福音なき、キリスト不在のクリスマスに馴れ親しんでいる、
キリスト教の文化が根付いていない日本の社会の中で、
神道や仏教の民俗の中に、どっぷりと浸っている人が、
イエス・キリストを信じてクリスチャンになるのですから、
それはそれは大きな心のせめぎあいがあったに違いありません。
キリスト教の信仰スタイルに、あこがれて信仰を持つようになる場合もありますが、
クリスチャンなら、何らかの形で、イエス・キリストに出会ったという体験をしているはずです。
キリスト抜きの信仰があるとすれば、
その信仰を疑ってみても間違いありません。
信仰心が深いからキリストがあらわれて、
そうでない人のところにはあらわれない・・・というようなものではなく。
それが宗教的なものではなくて、
人生に深くかかわりのある、何らかの経験を通して、
その過程の中で、
心にひっかかる体験を、合わせ持って経験されたと、
クリスチャンからよく聞きます。
その体験が、
心に隠れていた宗教的なものにたいする熱心さを開花させたのかもしれませんが、
心に隠れていたと言うよりも、
もとから人間に備わっていた、
人間の本質的なものに深くかかわりを持っているものと言ったほうが正しく、
聖書に詳しいクリスチャンには納得してもらえそうです。
聖書・バイブルは、
「 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。
この神は天地の主ですから、
手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、
人の手によって仕えてもらう必要もありません。
すべての人に命と息と、
その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」
(新約聖書・使途言行録・17章25節・新共同訳聖書)
「 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、
わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、
非のうちどころのないものとしてくださいますように。」
(新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙・5章23節・新共同訳聖書)
「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。」
(旧約聖書・創世記・2章7節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルは、人間は、霊と魂と体からできていると、
神は人に”命の息 ”を、つまり”霊 ”を吹き入れられることによって、
人は生きるようになったと語ります。
私たち人間は、もとから人間を造られた創造主なる神とのつながりの中に存在しているわけです。
しかし、最初の人間アダムが神に背いてからというもの、
神との繋がりは、遠のき、薄いものとなっています。
神を近いもとして知覚できない状態に置かれているのです。
ということは、人間なら、
だれでも、神との出会いはありうるということになります。
ただ、今は、その潜在的な能力とでも言えるものが、
理由があって、弱く働かない状態に置かれているのです。
神との出会いとは、
神の命の息、すなわち ”聖霊 ”ご自身が、
私たちの心に働きかけられ、
私たちの心を開かれるわけです。
神体験とか、霊とか、そのような言葉を聞けば、
なんだかうさん臭く聞こえるでしょう。
アメリカの月面着陸計画で、アポロ宇宙船に乗って地球の外へ飛び出した宇宙飛行士たちの多くが、
何らかの心理的な体験をしたと報告しています。
アポロ宇宙船から暗黒の宇宙に浮かぶ小さな青い地球を眺めるという、
魂をゆり動かされるような劇的な体験は、
神の視点をかいま見たとでも言える思いがけない体験だったのです。
それは、神と出会うとでも表現しうる体験だったのでしょう。
宇宙飛行士のその後の人生に大きな転機をもたらす経験だったようです。
中には、キリスト教の伝道師になった宇宙飛行士さえおられます。
アメリカはキリスト教が根強い国ですから、
彼らは、もとからキリストへの信仰心があつかったからだという反論もあります。
私たち日本人も、古くから宗教的に熱心な民俗の習いの中で、
あたりまえのように暮らしています。
誕生に始まり死にいたるまで、また四季おりおりに、
こと細かな祭りごとがあります。
そのような日本人なら、
何か大きな内的な心が動かされる体験をしたとしたら、
そこからなにものかを感じ取り、
それが人生に大きく影響を与えるはずなのです。
持っているのですから。
聖書・バイブルは、その出来事を、
創造主なる唯一の神の、神の作品としての、
人間にたいする究極の選択と態度の決定という出来事として、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活とによって備えられた救いという出来事として位置付けているわけです。
しかし残念なことに、
この日本では、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活とによって備えられた救いについて、
説かれ解き明かされる機会が、すこぶる少ないのです。
ですから、日本人の魂をゆさぶることも、
日本人の持っている死生観を大きく変えることも、
まだまだ遠い先の話しなのです・・・・。
多くの日本人は、
せっかく神から頂いているものを活かすことができない状態にあるのです。
知らずに滅びのときを待っていると言っていいでしよう。
時間の余裕はあまりありません。
なぜなら、
イエス・キリストが再び来られる日に備えなければならないからです。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on December 05, 2013.