避けては通れない罪というテーマ
キリストの教会が、罪というテーマを取り上げないなら、
” 罪のゆるし ” や、” 救い ” について語っても、
聞く人は、自分のこととして理解できないかもしれない。
いや、罪というテーマを語らなければ、
罪のゆるし、そして救いについて語っているとは言えないのではないか。
教会で語る罪とは、” 生まれながらに負っている罪 ” のことです。
すなわち「原罪」のことです。
しかしこと日本の一般では、人間は、もともとけがれのないものとして生まれてくるが、社会の悪い環境やシステムのせいで悪くなると信じられています。
「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)
私たちのすべての行為をひき起こすもととなるもの、
行為の原因が原罪なのです。
私たちの具体的な思いや言葉や行為よりも、
さらに根の深いところにあるものなのです。
こと日本では、
人間はもともと善なるものとして生まれてくるのですが、
社会の悪によって、社会の悪い環境によって影響されて、
道を誤り、やむなく罪を犯すのだと・・・・・。
だから再教育によって、教育的配慮によって、
悪くなった性質を正し、他からの保護や援助を受けないで、
まともな社会生活が送れるようになると信じられています。
聖書・バイブルが語るのは、
人間の精神は、あまりにも神からかけ離れてしまったため、
神を求め神に信頼する姿勢を失ったために・・・・・、
人間の考えること、行為すること、欲することなど、
ことごとくけがれたもの、法からはずれたものになるのだと・・・・・。
つねに罪深いから、その思い、その行為、その言葉も、
罪深いものになるのだと・・・・・。
日本一般では、人はもともと善なのだから、善でないことを言えば、また行えば、それは偽りになり、善と食い違うことになるわけです。
だから正すことができるのだと。
しかし聖書・バイブルは、
人間は、父なる神との関係から遠くはなれてしまい、
人間の考えること、欲すること、行動すること、計画すること、
ことごとく罪の毒に犯されてしまっているのだと断言します。
人間はもとから罪の奴隷であって、
何をしようが罪の実しか生じないのだと。
だからと言って、その罪の性質を、
本来認めてはならないものを、それでよいと許してはいけない、大目に見てはいけないのです。
「 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章20節・新改訳聖書)
人間は罪深い存在なのだから、
その罪からのゆるし、
その状態からの救いについて、人生にかかわる大きなテーマにすることができるのです。
人間のすべての罪と深いかかわりのあるイエス・キリストの十字架の出来事だから・・・・、
死と葬りと復活という出来事だから、
私たち人間にとっての福音となりえるのです。
” ひとりの人がすべての人のために死んだ ” という出来事、
すべての人の罪をその身に負い、身代わりとなって罪人として十字架にかかり、死刑となり、私たちの罪の代価をその命をもって支払ってくださったのです。
イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事、
それ以外の福音などありえません。
しかし、
この日本では、さまざまな罪が日常をにぎわしていますが、
自分の義や自分にとっての幸せについては取り上げられても、
罪の本質について論じられることありません。
だから、キリストの教会は罪について語らなければならないのです。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。
だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・口語訳聖書)
なぜ日本の人たちは、罪の本質について耳を傾けようとは、
受け止めようとはしないのでしょうか。
避けては通れないものなのに・・・・・・・・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 13 June 2009.