福音って何ですか



2000年もの昔、イスラエルはエルサレムの処刑場で、
ののしられ、はずかしめられ、あざけられ、ムチ打たれ、
肉体的な苦痛をその身に受けて、
死して罪をつぐなったという出来事が。
イエス・キリストが、十字架の上で罪人として死刑となり、
葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事が。

どうして、わたしたちにとって ”福音 ”なのか・・・、
つまり、良き知らせ・グッドニュース・ゴスペルなのか・・・。

このイエス・キリストの十字架の出来事を、
人間に向けて発せられた、
”神の啓示・神の和解の出来事 ”として受けとめ、承認することこそ、
私たちにとって福音になり得るのだということを知らなければなれません。

ただ単に、イエスを信じるとか、
キリスト教の信仰を持つことが福音ではありませんし、
救いでもありません。

福音とは、神の怒りの裁きからの救いとは、

この世界を創造された、人間をも造られた父なる神が、
被造物としての人間に向けて発せられた、
私たち人間が見ることができて、聞くことができる形において、
私たちのところにやって来た神の啓示として・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を、
受け入れ、承認することなのです。

「 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)

罪人が十字架で死刑となるのは、
そこには ”罪 ”が認められ、”裁き ”があり、
それにたいする判決として ”死刑 ”があるわけです。

イエスは ”罪を認めない ”にもかかわらず罪人として処刑されました。
ここに、私たち人間に代わってイエス・キリストが、
”身代わり ”として神の裁き受け、
罪をつぐなったということがあらわされているわけです。

私たち人間は、ひとりの例外もなく、すべての人が罪人でなければ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
”キリストの愛 ”として、私たちを取り囲み、
強く迫ってくるものとしての意味がなくります。

罪深い存在としての私たちに代わって、
この世界を創造された父なる神の怒りを、
その身に受けられたということが、
私たちにとって ”福音 ”になり得るのです。

神に背き、神に聞き従わないでいる私たち、
私たちの本性的な罪深さ、
生まれながらに罪深くなければ、
”神の怒りの裁き ”からの救いなど必要ありません。
この世界が、神の目から見て堕落していなければ救いなど必要とはしないのです。
神のひとり子イエス・キリストが人として、
救い主として、この世界に生れ来る必要など生れないのです。

最初の人間アダムが、取って食べることを禁じられていた、
善悪の知識の木の実を取って食べたというエデンの園の出来事に始まる、
神への背きの罪が原因となって、
アダムに続くすべての人類が生まれながらに負っている本性的な罪深さというものは、
思いにおいて、言葉において、行為や行動において、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして、
また、自然にたいして、この地球にたいして罪を犯し続けているのです。

現実は、この事実を認めようとはしない人間が存在しています。
この事実を認めることから、すべては始まります。
そうでなければ、罪の赦しも、神の怒りの裁きも、
キリストの福音も意味を失います。

神を見た者は、だれもいません。
ただ神から出た者だけが、神を知り、神を見たのです。
神の啓示というものは、
神ご自身でなければならないわけですから、
神のひとり子イエスが、人としてこの世界に生まれ来る必要があったのです。

罪を認めないイエスを十字架につけ、
罪人として、その命をささげさせた出来事が、
世界を創造された父なる神の、
この世界への、被造物としての私たちにたいする愛そのものなのです。
福音とは、神の愛の出来事なのです。

罪を認めること、そして言い表し、改めること、
思いにおいても、言葉においても、行為においても改めること、
それを父なる神は、
ひとり子イエスの命を差し出してまで、
被造物としての私たち人間に求められているのです。

私たちは、危機感を持ってこの事実を受け止めなければならないかもしれません。

現実を見わたせば、
罪深い私たちは、それを知ろうとも、認めようとはしません。
行為においても改めようとはしません。

しかし、世界は、終末へと、
滅亡へと近づいていることを知らなければなりません。

イエス・キリストを受け入れ信じる者は、
必ずやってくる世界の終わりのとき、
永遠の命へと移されているという希望によって、
救われているのです。

「 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、
だれもわたしのところに来ることはできません。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、
父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
だれも神を見た者はありません。
ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・6章44〜47節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 11, 2013.