 
性善説とか性悪説とか
 
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痛ましく、また、人間性を疑わなければならないような、
 人間としての在り方が問われるような出来事が、
 連日のように報道されています。
 
 ふだんは隠れていて見えない生まれつきの性質、
 人間の本性にかかわる事柄について、
 問われているのかもしれません。
 
 性善説に立って考えるのか、それとも性悪説に立って考えるのか。
 性善説なのか性悪説なのかと取りざたされもします。
 
 聖書・バイブルでは、
 生まれながらに負っている性質(原罪)が常に、
 自分にたいして人にたいして神にたいして罪を犯し続けていると語っています。
 
 「一人の罪によって、
 その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
 なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
 一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章17節・新共同訳聖書)
 
 一人の罪によってとは、
 アダムとイブが創造主なる神の意志に背いて、
 取って食べてはいけないと命じられた木の実を食べたという、
 エデンの園の出来事によって、
 アダムに続くすべての人間が苦境に追い込まれたことを意味します。
 
 イエス・キリストは、
 外から人の中に入ってくるのではなく、
 人の中から出てくるものが人をけなす・・・と語ります。
 
 「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。
 人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
 (新約聖書・マルコによる福音書・7章15節・新改訳聖書)
 
 キリスト教は、人間の本性を問題とします。
 信仰を持つということは、人間が本来負っている罪深さを、
 わが身のこととして認識することから始まるのです。
 そうしなければ救いはあり得ません。
 福音の本質とは、罪による結果からの救いなのです。
 
 話は変わりますが、
 日本の教育機関は、
 教育の現場だから・「いじめ」・は無いと言います。
 人には良心がありますから、良心が良識を育てます。
 教育の現場こそ、良識が育つ所であるので、
 いじめが起きるということは、教育が機能していないことを意味します。
 教育機関としては、現場でいじめが起きているとは認められないのです。
 
 人はもともと善なる存在であって社会の悪が人を悪くすると考えます。
 過失にたいしては、教育という、
 再教育という場があるのだから、いじめは起きないと・・・・。
 北白川 スー
 
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Wrote up on January 15, 2018.