信仰の土着化・民俗化


 日本の全人口に占めるクリスチャンの数は、

 カトリックやプロテスタント、キリスト教の本筋から外れたものまで含めて、

 1パーセント未満と言われています。

 別の信頼できる統計調査では、

 洗礼の有無や、教会につながっている・いないの別を問わず、

 自称クリスチャンを含めて6とも7パーセントという数字もあります。

 いずれにせよ、

 キリスト教の信仰やキリスト教の教会が、

 人々にとってなじみのあるところのものになっていないことをあらわしています。

 キリスト教の信仰が、地域社会に、また日常の生活に根をおろしていない証しなのです。

 日本におけるキリスト教の布教は400年もの歴史があります。

 それなのになぜ、キリスト教の信仰が、私たちの暮らしに根をおろさなかったのでしょうか。

 キリスト教の信仰とは、

 この世界を造られた創造主なる神を、

 それも唯一の神を、

 私たち人間をも造られた父なる神を、

 その神を神と知り信じることです。

 日本は多神教の民俗だから、それは無理だと言われそうです。

 さらにキリスト教の信仰の基礎として、

 また、支えるものとしては、

 ” ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事 ”・・・・、

 すなわちイエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざ・・・。

 この出来事こそ福音と言われるものです。

 むずかしく言えば・・福音の受肉化・・と言われるものです。

 神のひとり子イエスが、人としてこの世界に生まれ来た・・・、

 この世界を造られた神の究極的な選択が形となって現実のものとなったのです。

 神の意思が、人となってあらわれたのです。

 また、別の視点から見れば、

 神を見させない、見させようとはしない力が働いていて、

 だからよけい、神を、神の業(わざ)を明らかにしなければ、

 私たちは神を知ることはないのです。

 だから、キリスト教の教会で、

 イエス・キリストの十字架の出来事の解き証しが、

 くりかえしくりかえし語られなければならないのです。

 日本の社会の特性かもしれませんが、

 くりかえしくりかえし語られなければ、

 書いてあること、言われたことの意味をよく考え、その内容を理解することが得意ではないのです。

 さらには、私たちは感動しなければ何事も聞く耳を持ち合わせてはいません。

 そうだからこそ、イエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされるとき、

 私たちの心は反応して高ぶり燃えるはずなのです。

 それほどインパクトのある出来事なのです。

 私たち人間にとって・・・・・。

 また日本人にとっても・・・・。

 アメージング・グレイスな、おどろくべき出来事なのです。


 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 二人は、・・道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか・・と語り合った。」

 (新約聖書・ルカによる福音書・24章30〜32節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストは、私たちを悪の世界から救い出してくださるメシア・救い主なのです。

 しかし、私たちは、悪の世界にどっぷりと浸っていて、

 そこから逃げることも救われることもできない状態にあるなどとは信じようとはしません。

 つまり回心の必要などないと信じているのです。

 日本の社会や民間の習慣がそうさせるのかもしれませんが、

 あまりにも目移りがはげしいのかもしれません。

 私たちは、自分の行為や行動が残したものを、

 また、自分たちの精神のあり方などを深く見つめることをしないのですから・・・・。

 差し迫った今・・立ち止まって自分自身を見つめなおすことが求められているのかもしれません。

 そうだからこそ、イエス・キリストの十字架の出来事が明らかにされなければならないのです。

 その出来事こそ、きっかけになるはずなのですから。


北白川 スー

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Wrote up: 17 June 2010.