なぜ十字架から始まらないのか
 この日本で、ふだん目にする、また耳にするキリスト教の信仰は、
 なぜイエス・キリストの十字架の死による贖いの出来事から始まらないのでしょうか。
 初めて教会のとびらを開ける人は、
 特に日本の場合は、
 多くの場合、自分が抱えている重荷に始まって、信仰に入って行こうとするものです。
 どうにも身動きができないほどに、のっぴきならない状態に追い込まれて・・・・。
 今のままでは自分の義が立たず、
 教会なら自分のプライドを満足させてくれるだろう・・・・と。
 この行き詰まりを、キリスト教信仰によって活路を見出そうとするなら・・・。
 ここで先ず考えなければならないのは、
 信仰の場所について、位置についてです。
 自分の幸福の実現のために信仰は、
 自分のために信仰は存在しているものだと主張します・・・・。
 信仰というものは、自分の側からのアプローチで成り立っていると考えるからです。
 しかし、キリスト教の信仰はそうではないのです。
 まず ” 初めに、神の言葉があった ” ・・・・なのです。
 キリスト教信仰において優先するものは、
 神の言葉なのです。
 私たちに向けて発せられている神の言葉が、
 先ず何をもっても優先されるものなのです。
 私たちに向かって語られている神の言葉がなのです。
 何よりも先ず問題にしなければならないのは、
 ” 私たちに向けられ、差し出されている神の恵みについて ” なのです。
 信仰とは、言葉に信頼して聞くことであり、
 ” 私たちに向けて語られている神の答え ” を聞くというのが信仰なのです。
 まずこの違いを理解しなければキリスト教信仰というものを理解したことにはなりません。
 この違いを理解しないまま長年にわたって苦しみ続ける信仰生活を送っているクリスチャンが多くおられます。
 「 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書・5章39〜40節・新共同訳聖書)
 教会において ” あの神の言葉が ” 語られ・・・・・、
 そして、聞かれ・・・・、
 私たちはその言葉を聞きます・・・・・、
 そして、その答えがなされるのです・・・・・・。
 そのとき、わずかでも私たち自身の要求がその言葉に加えられるならば、
 その答えは、違ったものに変わってしまいます。
 私たちの優先ではなく、
 あの言葉によってとらえられ・・・・、
 あの言葉によって導かれ・・・・・、
 あの言葉によって解き放たれ自由になるのです。
 何から自由になるのかさえ、
 その言葉が私たちに教えます。
 まさしく、信仰は聞くことから始まるのです。
 仮にも、教会が、神の言葉を伝えず、教会にやってくる人たちの要求や必要に応えようとするなら、
 もうすでに信仰から外れたものになる危険性をはらんでいるのです。
 「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節・新共同訳聖書)
 キリストの言葉とは何でしょうか。
 それは、キリストの出来事に耳を傾けること・・・・・。
 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事に他ありません。
 キリストの言葉とは、私たちのただ中にあって、
 聞く耳を持っていても、持っていなくても、
 私たちが聞こうが聞くまいが、
 すべての人間に向けて語られた言葉・・・・、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・・。
 あのキリストの十字架の出来事なのです。
 キリスト教の信仰とは、
 イエス・キリストの十字架に始まるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 09 August 2009.