神を知る・・神との関係


 私たちがその方を、その方の名前だけ知っていたり、

 ただの歴史上の人物として、知識として知っているだけなら、

 私たちは、その方との関係など存在しない。

 しかし、その方が、

 私たちのことを、何もかも詳しく知っておられるとしたら、

 個人的にも、自分のことを親しく知ってくださっているとしたら。

 当然のこととして、

 その方とは人格的な関係・・人間味ある温かみのある関係にあるはずです。

 日常的にも、生きている存在として認識されるはずです。

 存在感のある存在にちがいありません。

 キリスト教の教会での、

 日曜日の礼拝は・・・。

 まさしく、その生ける神、

 ごくごく個人的にも、

 あたかも家族のひとりに出会うことのように、

 その方との交流が存在するのです。

 では何によって、その方の存在と、その方の思いや意思というものを知ることになるのでしょうか。

 自分とのつながりがあるものとして、

 その存在を知ることの出来事として、

 それこそが、イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事なのです。

 私たちのために、

 私のために、

 私たちすべての人間の罪をその身に負い、

 罪人として十字架にかけられ、命をささげられた方、

 神のひとり子イエス・キリスト・・・その人。


 「その方は、真理の御霊です。

 世はその方を受け入れることができません。

 世はその方を見もせず、知りもしないからです。

 しかし、あなたがたはその方を知っています。

 その方はあなたがたとともに住み、

 あなたがたのうちにおられるからです。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・14章17節・新改訳聖書)


 日本人の多くは、自然の造形であったり、

 自然の現象の中に霊的なものを感じ取ります。

 樹齢を重ねた巨木であったり、滝であったり、

 奇岩であったり・・・・と。

 キリスト教では、そのようなものに神の存在を見ません。

 教会において、イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが解き明かされてこそ、

 まことの神、私たち人間にたいするまことの神の愛を知ることができるのです。

 キリスト教の信仰においては、イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事を抜きにしては成り立ちません。

 また語ることすらできません。

 キリスト教信仰は、キリストの十字架の出来事の上に立っているのです。


 「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。

 イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。

 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章16〜17節・口語訳)


 人間の本性的なものにかかわることとして。

 生まれながらに背負っている人間の性質にかかわることとして。

 人間の生き様に、昨日・今日・明日のことに深く強くかかわることとして。

 キリストの福音は存在しているのです。


北白川 スー

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Wrote up: 27 March 2010.