信仰は、聞く耳を持つことから始まる
日本のキリスト教の教会は、最初の最初にすでに問題を抱えています。
教会が ”神の啓示の中にその基礎を持っている ”という認識が、教会の内外を問わず希薄だということなのです。
内外ともに ”神の啓示 ”が明きらかとなっているなら、
少なくともキリスト教教勢は現状に留まってはいないでしょう。
では、なぜ、常に、毎礼拝ごとにキリストについて、十字架について証しされ、語られないのでしょうか。
ただ教会は、たえずくりかえしくりかえし、教会自らに命じられているものを持っているはずなのです。
ただ教会は、ひとりの主を持ち、主のみこころを伝える使者を持っているはずなのです。
教会は、敬虔な人たちだけの教会ではありません。
ただ教会は、イエス・キリストの教会なのです。
しかし、ことこの日本においては、
キリストの福音によらない信仰も有り得るということなのです。
だからキリストの福音を外した教会も存在します。
すなわち、主イエス・キリストの御名を呼び求めない信仰なのです。
だから、人の持つ信仰心を信心を、
日本古来の神道や、または仏教や、既存の新興宗教に求めるのではなく、キリスト教の教会に求めることも起こり得るのです。
自分の気持ちにフィットする宗教を、数ある宗教の中からる選び取ることも起きてくるものなのです。
キリストの教会は、まぎれもなく、
神の啓示が語られるところなのです。
啓示についての証しを通じて私たちのところにやって来るものなのです。
それが、聖書・バイブルの中に生きている言葉と霊なのです。
私たちは、直接にイエス・キリストの十字架の出来事を見てはいません。
しかし、その場に居合わせた証人たちによって伝えられた証言を聞くことができます。
証人たちの語りかけを聞くことによって、
私たちはイエスの出来事を知っているのです。
だから、信仰とは、出来事であると聖書は語っています。
”それが起こらなければ ”、
人間がキリスト者に、信仰ある者であることは出来ないのです。
使徒パウロは言います。
信仰は、キリストの出来事に耳を傾けることから始まると。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節・新共同訳)
仮にも、教会において、
キリストについて、キリストの十字架について、
十字架の死によるあがないの出来事について語られないのなら、
罪人である私たちのところに来られた、神の言葉であるイエス・キリストについて語られないのなら。
キリスト抜きの、十字架の出来事抜きのメッセージを伝えるのなら、
キリスト教と言いながら、それはキリスト教とは別物になっていることをあらわしているのです。
教会のかしら・頭は、イエス・キリストなのです。
教会は、私たち人間の要求と意図と計画によって建っているのではありません。
まず自分の事ではなく、自分の不足や必要ではなく、
聞く耳を持つことから、信仰は始まるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 23 June 2008.