人間のただ中にあって



キリスト教の信仰にとって根本的であり、
かつ原理的な内容を持つ出来事、
それがなければキリスト教自体が成り立たない出来事、
その出来事こそが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事なのです。

キリスト教の信仰にとって、決してあいまいにすることができず、
筋道が通っていて、だれにでもよく分かる事柄であり、
何よりも一義的な事柄なのです。

その出来事が、理解されず、明確になっておらず、
後回しで、自分のことが先なら、その信仰は疑ってみてもいいでしょう。

その出来事、イエス・キリストの十字架の出来事は、
創造主なる神が、私たちをも造られた神が、
人間のただ中にあって、
人間に向けて語られた出来事なのです。

この出来事は、決して過去形ではなく、
2000年前に起きたただ一度の出来事ですが、
その出来事自身が語る行為そのものなのです。
人々に聞かれようが聞かれなくても、
すべての人間に向けて語られた出来事なのです。

今も語っておられるし、これからも語られる出来事です。
この出来事から聞こうとした姿勢を持ったときこそ、
信仰の始まりと言っていいでしょう。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
それでは、尋ねよう。
彼らは聞いたことがなかったのだろうか。
もちろん聞いたのです。
・・その声は全地に響き渡り、
その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17〜18節・新共同訳聖書)

この出来事は、被造物としての人間のために、
人間と共になされる創造主としての神の行為なのです。

この出来事を知らない日本の多くの人たちは、
この出来事から聞こうが、
この出来事を知らず、聞いたことがなくても、
この出来事は、日本人に向けても語られた神の出来事なのです。

しかし、語り知らせる人たちが居なければ、
イエス・キリストの十字架の出来事は伝わることはありません。
語り知らせなければ聞くこともできません。

キリスト教では、福音の神の行為と働きそのものが言葉とされています。
その言葉こそ、ロゴスなのです。
信仰の根拠であり命そのものなのです。


北白川 スー

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Wrote up on January 19, 2017.