
語られる機会の極端にすくない福音

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 この日本では、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・。
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の解き明かしが、
 わずかな機会があったとしても、
 その機会にさえ解き明かされることが極端に少ないのが日本の現状なのです・・。
 日本のキリスト教と言えば、
 毎日曜日の全国の教会の礼拝に集まる人たちの数といえば、
 人口に占める割合にして、わずか1パーセントたらず。
 洗礼を受けたか受けていないかを問わず、
 自分はキリストを信じているクリスチャンだと言う人の割合は、
 信頼できる統計調査では6パーセント・・・。
 その差はどういうことなのかは別のこととして。
 キリストへの信仰を持つために、
 必要欠くべからざる要素としての、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事について、
 さらに、イエス・キリストの誕生と死と葬りと、
 死人のうちからの復活という出来事のについて、
 解き明かされる機会が、
 広く解き明かされているとは言えなくても、
 少しは知られているとしても、極端に、
 とても比較にならないほど少ないのです。
 聖書・バイブルは明確に次のように語っているのですが、
 「 実に、信仰は聞くことにより、
 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
 キリストの言葉とは、
 まぎれもなくキリストの出来事、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を指示しているのです。
 この出来事が解き明かされなくては、
 キリストへの信仰は、
 キリストへの信頼は生まれてこないのです。
 キリストの十字架の出来事が解き明かされることが極端に少ない日本の現状において、
 真の信仰者は、どれほどの数を数えることができるのでしょうか。
 聖書は ”信仰は聞くことに始まる ”と語ります。
 人間が神に聞くというこの一事によって、
 神が人間にたいして語られているからこそ、
 人間が神に聞くという行為が生まれるのです、
 信仰は、神が語られていることを聞くということによって、
 支えられ、確かなものとなるのです。
 ですから、どうであっても、
 イエス・キリストの出来事、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされなくては、
 真の信仰者は生まれてこないのです。
 しかし、そのように言えるものであっても、
 私の文章は極端すぎる。
 日本の事情に合っていない・・・と、
 ご批判をいただくことが多いのが現実なのです。
 日本の事情・・・・、
 イエス・キリストの十字架の出来事に、
 その基礎を持っていない信仰が存在するということでしょうか。
 解き明かすことのできる、
 ごくわずかな機会があったとしても、
 わずかな時間しか許されなくても、
 その機会を活かして、
 キリストの十字架の出来事は、
 解き明かされることがないのです。
 「 主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。
 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
 また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章13〜14節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on  September 09 , 2012.