救いの確信がない
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こと日本に根付いている国民性とでも言えばいいもの、
一般に共通した性質とでも言えるものとして、
イの一番に、
真っ先に答えを出さなければならないものに答えを出さない・・・という傾向がとても強い国民性なのです。
クリスチャンであっても同じです。
よく話しの節々に”救いの確信がない”という言葉をよく耳にします。
救いの確信がなく暗く沈んでいるクリスチャンが多いのです。
その原因は何でしょうか。
まず考えられるのは、
教会で、
福音が解き明かされない限り何も始まらないということです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
解き明かされているのかどうか・・・・。
解き明かされてこそ、
理解し、受け入れ、承認することができるのです。
そうしてこそ、初めて、
神との和解の出来事について、
罪について、罪の赦しについて、
神の裁きからの救いについて理解できるのです。
「あなたは救われています」と言われても、
何のことだか・・・・。
福音が解き明かされない限り何も始まらないのです。
それが、”救いの確信がない”という原因そのものなのです。
キリスト教の信仰を持つための、
真っ先に答えを出さなければならない答え、
それが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
神の啓示と言われるもの、
神との和解の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事という、
神の啓示の証しを通さずに、
救いはやっては来ません。
聖書・バイブルは、
神の啓示を聞き、また見た人たちの証しの言葉に満ちています。
神の啓示についての証しがあればこそ、
私たちは信仰によって神の啓示を認識できるのです。
「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
神の啓示の証しに基づいてこそ、
啓示を与えられ、受け取り、受け入れ、承認することができるのです。
神が人間のところに来られて、
人間のものとなられたという神の啓示において明らかになった、
創造主なる神の、
被造物としての人間にたいする、
究極の選択と決断と態度の決定というもの・・・・・。
その態度の決定というものを受け入れてこそ、
救いが確定するのです。
「 キリストは、神のかたちであられたが、
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、
人間の姿になられた。
その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、
しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・口語訳聖書)
あいまいな救いなど存在しません。
救いとは、具体的かつ明確なものなのです。
「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 08 August, 2012.