クリスチャンが少数派の社会では
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日本のような、クリスチャンが少数派の社会では、
・・・日本では大多数の人たちがそうなのですが。
クリスチャンでない人が、
なにげなく行っているふだんの動作や言葉使いから、
クリスチャンの姿を見て、
または教会の有り様を見て、
そのように感じとっているのでしょう・・・・。
クリスチャンたちを見る眼というものは、
冷ややかに、
弱い者を、愚かなものでも見るような眼であったり・・・・。
なにか特別な人を見る目のようであったり・・・・。
ですから、カミング・アウトするのをためらわせるのです。
教会やクリスチャンを見る眼というものは、
事実にあっている正確な知識や情報といったものではなく、
見る人の感覚的な、
感情的なものから来ているといっていいし、
あいまいな情報に基づき、想像をかさね、また判断しているのです。
しかし、キリスト教というものの、
その基礎となる教理や教え、信条や論理や価値観などを、
それらを知った上で、理解した上で、
冷ややかさと愚かなものでも見るような眼というものが生まれてきたのでは無いでしょう。
なぜなら、この日本では、キリスト教の教えとか、
クリスチャンとしての信条とか・・・。
もっとも大切な価値観の基いとなる、
キリストの福音というものが、
広く知られているものではないからです。
日本の多くの人たちは、
キリスト教のなんたるかを知らないと言っていいでしょう。
イエス・キリストは、誰なのか、
聖書が言う・・罪・・とは何なのか、
復活とは・・、・・救い・・とは、いったいどういうことなのか。
日本の大多数の人たちは、
聖書・バイブルが物語っている、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事が、
何を意味しているのかを知りません。
正確に伝わってはいないのです。
こと宗教というものは、
理性と感情との二面性を持っていると言えそうです。
信仰が教義や教理によるものと、
キリスト教の信徒が共通して持つことを求める、
つまり、聖書の教えと、
人それぞれが、どのように信仰しているのかという、
個々人の人間の信仰告白によるものとの二通り、
二面性を持っているということです。
現在の日本のキリスト教は、
教理よりも信仰が、
とくに論理よりも感情が優先されているようにも見えます。
キリスト教は、何といっても聖書・バイブルがその基礎です。
キリスト教2000年の歴史において、その信仰の柱となってきたものは、
それは、聖書・バイブルに書かれているイエス・キリストの物語そのものなのです。
旧約・新約聖書・全66巻を通して、
天地創造の物語・・創世記に始まり、
世界の終末を語るヨハネの黙示録に至るまで、
イエス・キリストの証しが語られているのですから。
クリスチャンなのに聖書を持っていなかったり、
読まなかったり、
それこそ神棚に飾ってしまう人もいます。
熱心に教会の礼拝に通っていても、
礼拝の雰囲気といえばいいでしょうか、
自分が感動したか、しなかったかで判断する人もいます。
教会の・・奉仕・・と呼ばれるさまざまな行為に熱心に参加することによって、
その行為による疲れを、心地良さとか満足感として、
それを信仰として捕らえている人もいます。
しかし、決して、キリスト教は、
人間的な、感情や感覚的なものではありません。
聖書・バイブルには、キリスト教信仰を体系づけるもの、
論理や思想というものがはっきりと語られているからです。
クリスチャンであっても、なかっても、キリスト教信仰というものを、
感覚的に、感情的にとらえてしまえば、
正しくキリスト教信仰というものは伝わらないでしょう。
強いて言えば、キリスト教についての情報の少なさは、
キリスト教にたいして、また教会にたいして、
誤った見方を形作ってしまうことが起きるのです。
キリスト教の教会を、
何かの施設のように思い込み勘違いしている方もいます。
社会で受け入れられなかった弱い人たちを教会が受け入れる、
そのような施設として見て取っているのかもしれません。
教会は特別な施設だと。
どうも日本人は、とくに感情的、感覚的、情緒的なのかもしれません。
クリスチャンであってもなかってもです。
ですから、教会においては、
くりかえしくりかえしイエス・キリストの十字架の出来事が語られなければならないのです。
クリスチャンであってもなかっても、
共通の言葉は、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
今日、初めて教会にやってきた人であっても、
10年20年とクリスチャンをやっている人であってもです。
教会の説教台から語られる、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を、
イエス・キリストの生と、
十字架による死と葬りと復活という出来事の内容と意味とを、
語られたことによって、再び確認し、理解し、確信するものなのです。
難しく言えば、
私たちに向けて明らかにされた、
神の啓示の証しに基づいて、
私たちにたいして与えられた神の啓示を、
受け入れ、承認することだけなのです。
教会の歴史は、神の啓示の証しが教会を形作ってきたのです、
仮にも、教会においてイエス・キリストの十字架の出来事が語られないとしたら、
何が起きるか想像してみてください。
メッセンジャーのパホーマンスが、
聞く者に感動を与えたか、そうでなかっただけではないでしょうか。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、
洗礼を授けるためではなく、
福音を告げ知らせるためであり、
しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、
言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
十字架の言葉は、
滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章17〜18節・新共同訳聖書)
キリスト教の信仰とは、キリストについての福音を、
すなわち、イエス・キリストの十字架の出来事を聞くことにほかならないのです。
信仰は、聞くことからやって来るのです。
「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節・新共同訳)
信徒としての原理原則、信仰の基礎となるものは、
何事においても優先するもの、
神の啓示の出来事を信仰において認識することなのです。
北白川 スー
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Wrote up on October 01, 2016.