信仰を持つということは、クリスチャンになるということは
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聖書・バイブルは語っています。
信仰とは出来事であって、
それが起こらなければ、人間がクリスチャンにキリスト者に、
信仰ある者であることはできないのです。
私たちは直接にイエス・キリストの十字架の出来事は見てはいません。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は見てはいません。
しかし、その場に居合わせた人たちによって伝えられた証言を聞くことはできます。
それが、聖書に書かれた証人たちの手紙なのです。
その場に居合わせた人たちの証言を聞くことによって、
私たちはイエス・キリストの十字架の出来事の内容を知ることが出来るのです。
イエス・キリストの十字架の出来事を知ることによって、
初めてキリスト教の信仰が始まるのです。
イエス・キリストの十字架の出来事とは、
まぎれもなく神の啓示なのです。
神の啓示が、啓示についての証しを通さずに、
私たちのところに来るとすれば、
それは神の啓示ではありません。
あらかじめ、前もって、
聖書・バイブルの中に書かれている預言の言葉が、
イエス・キリストによって成就した・・・・出来事。
それがイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事なのです。
キリスト教の教会は、
その神の啓示の中に基礎を持っています。
それ以外の理由によって教会が建っているのではありません。
仮にも神の啓示以外の理由によって教会が建っているとすれば、
それは神の教会ではなく、ただの人間の施設なのです。
キリストの教会が神の啓示の中にその基を持っているのは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという、
神の啓示を聞き、
また啓示を直接に見た人たちの証言の上に立っているからなのです。
そして、神の啓示を語ることによって支えられてるのです。
クリスチャンとは、キリスト者とは、
神の啓示を聞き、
啓示を与えられ、
啓示を承認し、
啓示を受け入れた人たちのことを言います。
「 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 10 June 2011.