罪というテーマを考えるとき


 ここで取り上げようと試みている罪とは、

 私たちが日常の暮らしの中で、

 つい犯してしまう過ちや罪のことではありません。

 してはいけないと思うことを無意識にしてしまったり、

 法律を犯してしまったり、交通違反をしたり、

 人間倫理に反することをしたとか・・・・。

 そのような、私たちが日常の中で、ときどき犯してしまう罪のことではありません。

 具体的な行為や行動などよりも、もっと根の深いところにあるものなのです。

 人間として一番大事なことがら・・・。

 そうであって、また、いちばん厄介なことがら・・・・、

 私たちの思いや、言葉や、行為や行動に影響を与えているもの、

 だれひとりの例外もなく、人間が生まれながらに負っている性質のことを言っているのです。

 私たちが、ときどき罪を犯すから罪深いのではなく、

 ” 常に罪深い ” からときどき罪を犯すのです。

 その生まれながらに負っている罪深さを、

 「原罪・ゲンザイ」と言います。


 「 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、

 すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い(あがない)によって義とされるのである。

 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。

 それは神の義を示すためであった。

 すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

 それは、今の時に、神の義を示すためであった。

 こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21〜26節・口語訳聖書)


 イエス・キリストが十字架の上で命をささげられた出来事は、

 イエス・キリストが私たちに代わって命をささげられた出来事は、

 被造物であるところの私たち人間と、

 この世界を造られた創造主なる神との和解の出来事にほかありません。

 私たちの罪すなわち、創造主なる神にたいする罪、

 その罪をイエスは死をもって贖って(あがなって)くださったのです。

 なぜでしょうか。

 私たちが、神の裁きの前に立つことがないようにです。

 罪にたいしては、必ず報いがやってくるのですから。

 罪にたいする裁きから逃げることはできません。

 ですから、私たちは神から救われなければならないのです。

 しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。


北白川 スー

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Wrote up: 18 May 2010.