信仰していることは問題ではない



地域社会で、クリスチャンとして生きて行くことの大変さは、
苦労の多い、心をわずらわせるものなのです。
苦労を苦労として感じているのはクリスチャン自身なのかもしれません。
地域の人たちの考えは、地域社会の習いに、
地域社会の義務や義理に従ってくれれば、
クリスチャンにたいして特別扱いはしないし、
いつもの地域社会の冠婚葬祭などの行事に、
日本の民俗に根差している祭りごとに参加してくれれば、
信仰していることは何の問題にもならないと。

しかし、地域社会の義務を果たさず、義理を欠くことは、
自分の利害にかかわりなく、
他人にたいしてしなければならないことに加わらないのなら、
それは、地域社会の人間関係に混乱を持つ込むことになるから、
地域社会の秩序の維持に、
緊張した状態を作り出すから困るのだと・・・。

キリスト教を信仰していても、
それはそれで、おのおのの世界があるのだから、
地域社会で求められている、
当然なすべき行ないとして定められている義務を果たしてくれれば、それでいいと・・・。

クリスチャンとしては、
だから、それでは困るのです。

聖書・バイブルが示しているのは、
人間とは、一つのまとまりのある有機体として、
全一な人格の持ち主として語っています。

すべての人間は、神に背いた罪深い存在だと。
この一点からすべてを考えますから、
日本の民俗的な習いのすべては、
創造主なる神に背いた習いですから、
日本のすべての文化や習慣には、
その習いに立っている地域社会のルールに従うことは出来ないのです。

日本で、信仰していることは問題ではないと言われるのは、
おのおのの世界では、その世界の中で通用するルールがあって、
世界が変われば、当然にして異なった要求があるものなのだと。

日本人には、創造主なる神と被造物としての人間の関係に立った倫理的な定め、
暮らしの全面をおおう倫理的な定めは不要だということです。

善と悪との闘いであるとか、
性格の一貫性を求めるとか、
それらは日本では必要ないのです。

情におぼれて義理や義務を欠くとか、
国家にたいする忠誠から親に孝行できないとか、
組織にたいする誠から、
義理にせまられて家族を犠牲にするとか・・・。

義理と人情、義理と義務、忠誠と孝行、
おのおのが正しい義なるものであって、
それらのせめぎ合いが日本人のすべての暮らしを支配している特色として成り立っています。

キリスト教の信仰は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救い・・・・。

キリスト教の信仰の根本は、
罪の問題を正面から取り組むことですから、
信仰によって、新しい人格を獲得する、
新しい人格が形作られる・・・・というものです。

だから、信仰していることは問題ではない・・・・では決してないのです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
私たちはこう考えました。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、
生きている人々が、もはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。
かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、
今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、
また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、
違反行為の責めを人々に負わせないで、
和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・5章14〜19節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 15, 2014.