クリスチャンでいることの大変さ



・・私はクリスチャンです・・とでも言えば、
カミングアウトされた方の人の目には、
興味に満ちた、
クリスチャンでいることの大変さに同情するかのような視線を感じます。

クリスチャンというマイノリティーに向けた、
何か ”変わった人”に向けた視線をとでも言えばいいでしょうか。
または、そうまでして何かと闘っている人に向けた視線とでも・・・。

地域社会で、クリスチャンとして生きて行くことの大変さは、
・・クリスチャンにたいして特別扱いをしないで、
地域社会の習いに従っていれば問題はありません・・・。
地域社会の義務や義理に従えば、
信仰していることは問題ではないと言われるわけです。

誕生に、就学に、お盆に、祭礼に、冠婚葬祭に、法事に・・・等々。
これらの民俗の習いにたいして、
義務を果たさず、義理を欠くことは、
やはり、地域社会の人間関係に混乱や、
緊張した状態を作り出します。
地域社会の秩序の維持に問題を持ちこむことになるわけです。

極端に言えば、
日本のクリスチャンは、家庭や学園や会社や地域社会において、
常に緊張した状態に置かれていると言っていいかもしれません。
クリスチャンとしては、
安住の地を信仰に求めているわけですが、
現実は、そうではないのです。
日本においては少数派ですから、しかたがありません。

教会やキリスト教の団体が、
聖書・バイブルの言葉を、
キリスト教の教えや信仰というものを、
広く日本の社会に知らしめて来なかった結果として生まれてきたのでしょう。

クリスチャンが多数派になれば、立場は逆転するわけです。
福音は、すべての人に向けて明らかにされたものなのですから。

「わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、
信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
・・正しい者は信仰によって生きる・・と書いてあるとおりです。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、
神は天から怒りを現されます。
なぜなら、神について知りうる事柄は、
彼らにも明らかだからです。
神がそれを示されたのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜19節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on January 02, 2014.