すでに終わった出来事



人は、自分を悩ませている事柄を考え、
明日か、もしくは将来に向かって、
それが起きるようにと望んでいる。

自分の思う通りになるよう願っていることでしょう。
自分を悩ませている問題が片付くようにと望んでいることでしょう。
明るい未来が開かれるようにと求めていることでしょう。

しかし、それらは、いまだ、なにものも解決していないはずです。
それらの問題について、みなが納得の行く結果を見てはいないし、
まだ来ていないと思っているはずです。

しかし、その出来事はすでに終わっているのです。
これから始まるものでも、これから起きるものでもないのです。
すでに解決ずみなのです。

しかし、そのように考えるには反対があるでしょう。
今も悩み続けているし苦しんでいるのに。

しかし、すでに終わったのです。
すでに、すべて解決を見たのです。
すでに完了したのです。

しかし、私たちは、それとは知らず、または、遠くにありすぎて見えないのでしょう。
何ものも解決を見ていないのだから、
疑いを持つだろうし、否定もするでしょう。
しかし、すでに終わっているのです。

私たちは、あまりにも自らの問題にとらわれすぎて、
自らの目を、すでに終わったその出来事に転じることが出来ないでいるのです。
すでに解決済みであるにもかかわらず、
まだ終わっていないと思っているだけなのです。

私たちは、自分自身の思いに、
また自分自身の苦しみや悲しみに心がうばわれているがゆえに、
すでに終わったその出来事を、
私たちにとってかかわりが大きく決定的なその出来事のことを忘れているのです。

その出来事こそ、永遠にして変わらない、動かしがたい一回かぎりの出来事なのです。

私たちが、ただその出来事から理解し、永遠に基礎づけることができるだけであって、
他のところから、
つまり、自分が大事なことだと思っている問題からは、
決してそうすることが不可能な出来事なのです。

しかし、たちは、自分が大事なことだと思っている問題こそが、
もっとも大切なことだと思っています。
だからこそ・・・・。
その出来事を、ただ受け入れることのみを求められているのです。
目を転じよと・・・。

その出来事を見出し受け入れる者は、
その出来事は、自分にとって必要なものが十分に与えられるものとなり、

その出来事を知らされず、また、その出来事に対決して、自分の思いや自分を主張をする者は、
いつまでたっても自分にたいして救いの手が差し伸べられているとを知らず、
また自分を照らしだす光を見いだすことを知らないのです。

その出来事こそイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事なのです。


北白川 スー

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Wrote up on April 11, 2015.