神や仏を信じる行為が信仰
実に素朴な疑問ですが、
信仰とはいったいどういうことなのでしょうか・・・。
神や仏などを、あがめ尊び、その教えに従おうとする姿勢。
神や仏を信じる行為が信仰と言っていいわけです。
では、クリスチャンは何を信じているのでしょうか。
もちろん、イエス・キリストのはずです。
しかし現実は、そうではないかもしれません。
キリストへの信仰ではなく、
教会や信仰生活の心地よさに信仰している場合もありえるのです。
現代社会にあって、
自分への評価を得られず、
自分の居場所を失い、また得られず。
その結果、
自分の生き方にたいする評価と肯定とを求めて、
教会に居場所を得ようとする場合だってありえます。
こと日本のキリスト教を取り巻く実情は、そうなのかもしれません。
それがクリスチャン人口1パーセントという数字にあらわれているのでしょう。
信仰とは、まぎれもなく神を信じる行為であるはずです。
本質的に人間の生き方にかかわるものです。
つまり、私たち人間は、
神を知るために生まれてきたのです。
この世界を造られた創造主なる神は、
私たち人間をも創造されたからです。
しかし、私たち人間は、
神への思いを、どこかへ置き忘れてきたのです。
生まれながらに負ってしまった性質のために。
神を神とは思わなくなった人間たち・・・・。
神を神と思わなくなった人間にたいしては、
神の裁きが下ります。当然のことです。
作品は作者に栄光を返す存在として創造されるのですから。
創造の秩序に反するものは裁かれます。
しかし創造主なる神は、
作品にたいする愛を放棄されることはありません。
その証拠こそ、神のひとり子イエス・キリストの、
十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事にあらわされているのです。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、
恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、
神の玉座の右にお座りになったのです。」
(新約聖書・ヘブル人への手紙・12章2節・新共同訳聖書)
神のひとり子イエス・キリストは、
創造主なる神の被造物である人間の罪を、
その身に負い、死して、罪の代価を支払ってくださったのです。
そのわざの中にこそ、
創造主なる神の、被造物にたいする愛があらわされているのです。
そのイエス・キリストを信じる行為こそ、
キリスト教の信仰そのものなのです。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、
つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、
これを通して神を知ることができます。
従って、彼らには弁解の余地がありません。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章20節・新共同訳聖書)
神を忘れてしまった私たちは人間は、
ただ、イエス・キリストの十字架の出来事によってのみ、
創造主なる神を、神の被造物にたいする愛を知ることができるのです。
北白川 スー
関連記事・「キリストへのプロローグ」
表紙にもどります。
エッセイの部屋へもどります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on 10 January 2011.