罪について考えてみますと、


 日本の最近のキリスト教は、罪についてあれこれと言わなくなったようです。

 キリスト教こそ人間の本性について、

 人間の、隠れていて見えない生まれつきの性質というものを、

 生まれたときから負っている罪深さという性質を、

 真正面から見すえ、また考えるところなのです・・・・。

 キリスト教の教えは・・・、

 ” ひとりの人がすべての人のために死んだ ” という出来事にその基礎を置いています。

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14〜15節・参照)

 すなわち、イエス・キリストが、私たちのすべての罪をその身に負い、

 罪人として十字架にかけられ処刑され、

 葬られ、三日の後に死人から復活したという出来事に・・・。

 イエス・キリストはご自身の命をささげることによって 

 私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです・・・・。

 だから、そのイエスを信じることによって、

 神から罪の赦しを得られる・・・・・。

 では、この罪とは、また赦しとは・・・” 罪の赦し ” とはどのようなことなのでしょうか。

 この罪とは「原罪」のことを言っており、

 罪の赦しとは・・・神の裁きから免れることを意味しています。

 最初の人間・アダムが、この世界を造られ、また人間をも造られた創造主なる、父なる神の命に背いたため、

 それに続く人類は、ことごとく罪深さという性質を背負って生まれてくることになったのです。

 これが「原罪」の起源です。

 この ” 神への背き ” にたいしては、

 やがて来る、必ずやって来る神の怒りのときに、

 ” 神の裁き ” として待ちかまえています。

 この裁きから救われるためにこそ、イエスへの信仰が位置づけられているのです。

 イエス・キリストこそが、神の裁きから私たちを救ってくださるお方なのです。

 日本人ほど義を尊び恥を嫌う ” 民俗 ” は他に例を見ません。 

 自分の生き方こそ肯定されるべきだと、

 自分は罪深い存在なのだとは、とても認められないのです。

 ですから、原罪についてなかなか理解を得られないのかもしれません。

 原罪という生まれながらに負っている性質が、

 思いとなって言葉となって行為や行動となって、

 神にたいして、人にたいして、自分にたいして罪を犯してしまうなどと信じられないのです。

 この世界を造られた神との関係を疑ってみることも、

 心の中に巣くう罪深さのあらわれなのかもしれません。 

 自分を責めてみたり、

 神から見放されたと思い込んだり・・・と、

 この世界を造られ、また私たちをも造られた神は、

 私たちを見放すはずがありません。

 その証拠が、救い主イエス・キリストなのですから。

 ただ私たちが神に背を向けているだけなのです・・・。

 救い主イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、

 神の目から見て、この世界が堕落している証拠なのです。

 つまり私たちは罪の中をさ迷い、あらぬ方向に向かって歩いているのです。

 私たちの創造主・父なる神に背をむけて・・・・、

 やみの中をさ迷い続けているのです。


 「 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・6章33節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 28 May 2010.