教会に救いを求めて



何らかの理由で、教会に救いを求めてやって来る人たちの、
”救われたい ”という思いと、
イエス・キリストを信じたいという思いとが、
必ずしも矛盾せず違いが見られないというものではないのです。

いや、イエス・キリストへの意識など覚えないまま、
満たされていないものへの熱望が、
教会へと足を運ばせたはずです。
心からそうあって欲しいという望みが、
教会ならかなうのではないかと。
満たされない状況から抜け出したいと、
心の内に描いている望みが実現するのではないかと。

共同社会の中に自分の居場所を見いだせず、
思う通りに生きたいと、
自分の信じた道で、一生懸命生きたいと思い、
自分の正当性と自己肯定を求めて・・・・、
そう思えば思うほど迷路に入りこんでいく自分がそこに居るのです。

キリストの福音に接して、
イエス・キリストを信じたいという心の変化から、
教会へ来たわけではないのです。

聖書・バイブルは、
人間は、罪の世の中で、常に試みと誘惑の中にさらされていると語りますが・・・。
イエス・キリストは、私たちの重荷をになってくださる方であり、
癒し主・いやしぬしだと語っています。

しかし、教会に来たからといって、
現実に抱えている問題が解決しない場合だって起こり得ます。
苦しい現実の問題から解き放たれないことほど辛いものはありません。

「 あなたがたが召されたのはこのためです。
というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
・・この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。・・
ののしられてもののしり返さず、
苦しめられても人を脅さず、
正しくお裁きになる方にお任せになりました。
そして、十字架にかかって、
自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、
義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、
あなたがたはいやされました。
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
今は、魂の牧者であり、
監督者である方のところへ戻って来たのです。」

(新約聖書・ペテロの第1の手紙・2章21〜25節・新共同訳聖書)

・・罪にたいして死んで、義によって生きるようになる・・・と語っています。
つまり、救いとは、罪の体質は死にわたされ、
永遠の命へと復活することにあるのです。
救いとは、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ることです。

自分には、罪の体質がある・・・信じられない・・。
自分は悪くはないのに・・・。

罪から離れて神との正しい関係に生きるようになるため、
イエス・キリストは十字架の上で、
私たちに代わって、
私たちの罪をその身に負われたと語っているのです。
私たちが思い描く、”救われたい”という思いや願いや望みが、
自分にたいする反省もなく、
その場にとどまることの上に立っての望みなら、
不満も不安も心配もない、
落ち着いた暮らしを望んでの願いなら、また信仰なら・・・。
イエスは、そのために十字架に死なれたのでしょうか。
てうではないでしょう。
聖書・バイブルが語る ”救い ”とは、決してそういうものではない。
私たちが楽な暮らしをするためにイエスは十字架に死なれたのではない。
イエスは、私たちの本当の姿を、
迷いの中をさ迷い歩いている私たちの姿を、
身をもって示されたのではないだろうか。
十字架にかかっている人間の姿として。
つまり、神の怒りの裁きを受けなければならない私たちの真の姿を。
十字架にはりつけになるのは、私たち罪人なのです。
”救い ”とは、
私たちから迷いがなくなるのではなく、
迷いの中にいる自分自身の姿がはっきりと見えることを言っているのではないでしょうか。
難しく言えば、キリスト教の信仰とは、
たえず自分自身にたいする、
自分の行動の跡や精神・心のあり方を、
そのまま受け入れて良いのかどうか、
深く見つめることではないでしょうか。
迷いの中にある自分自身の姿がはっきりと見えれば、
これから歩むべき道筋も開けてくるものです。

信仰すなわち、神との正しい関係に生きるとは、
迷っている自分自身の姿をはっきりと自覚して歩むということです。
信仰は、なぜイエス・キリストは十字架に死なれたのか、
常に考え続けることを求めるのです。

聖書・バイブルは語っています。
「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

聖書によって語られている神の言葉を聞き続けるという姿勢がなければ、
神の作品としての人間の、
人生の道筋を明らかにすることはできないのです。

キリストの言葉とは、キリストの十字架の出来事のことです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事のことです。
その出来事を信じたときから、
神の啓示を、神の和解の出来事の内容と意味とを、
理解し、受け入れ承認したときから、
罪は赦され、神の怒りの裁きから救われ、
永遠の命が始まるのです。

「 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

教会の説教によって、
聖書・バイブルが言うところの、”罪や罪の赦しや救い ”について、
くりかえし、くりかえし、
具体的に説かれ解き明かされることを望みたいものです。
そうしなければ闇の中にいる私たちは何一つとして分からないのです。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on November 30, 2013.