人の心を苦しめている本当の原因は



ネットに、長年にわたって小論を書き続けていますと、
よくお叱りを受けます。間違っていると。
前提としている価値観が、
日本の一般常識とされる価値観と、
聖書・バイブルの価値観とは真逆だからかもしれません。

日本人の特質を極端に言いますと。
自分の外にあって、自分を冷静に観察することをしない・・・。
自分の姿を知らない、自分を疑うことをしない・・・・。
立ち止まることをしない・・・。
立ち止まることを許さない・・・。
ではないかと。

「そのとき、イエスは言われた、
・・父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです・・・・・」

(新約聖書・ルカによる福音書・23章34節・口語訳聖書)

日本人はとくに、自分にとって大事な守るべきものがある。
自分は正しい、
だから自分を信じて生きて行こう・・・。
・・・・という思想となり人生観となっています。

人には能力があるのだから、
自分の感じ取るままに、行動していこう。
それが、その人の持っている、
ほめられるべき性質のように思われているからです。

しかし、それが、人の心を苦しめている根本的な原因だとしたら・・・。
人間関係に不協和音を作ってしまう原因だとしたら。

自分を信じて、自分の可能性を信じて、
自己実現を目指して、
自分を可能な限り、活かして生きることが、
今日を充実して生きることになり・・・・、
明日を未来を明るいものにするのだと。

そのような考え方や姿勢が、広く人々に支持されていると信じて・・・。
そのような人生観が、生活や行動のすべての判断のよりどころとなっています。
自分らしく、まとまりあるものにしようという心の動きとなってあらわれるのです。

しかし、いつしか、その思いが、自分の心に重くのしかかってくるのです。
それが、人の言い知れない混乱と不安を生み出している原因なのです。
それとは気付かずに、人間関係のあつれきを引き起こしている原因となっているのです。

尽くさなければならないと思っても、
周りから違和感を持って見られたなら。
自分ひとりなら、問題にはならないでしょうが、
まわりと比べたり、まわりとのかねあいや、まわりからの期待があれば、
それは、重圧のなにものでもないのです。
期待をかけられればかけられるほど、心の負担になってくるはずです。

それをバネとして、また励みとして、さらなる高みへとチャレンジできるだけの、
状況を正確に理解し、
求めに応じた修正を加えることのできる、
修正力と精神力と体力を持ち合わせているのなら・・・・。

すべての人がみなそうだとは限りません。

親からの期待、その期待に応えようと努力を重ねる子ども・・。
しかし、期待に応えられない自分を見いだしたとき、
それは他の人には知り得ぬ苦悩となり重圧となります。
行きつく先に、悲劇的なドラマが待っているとしたら。

人間は、みな善なるもの義なるもの、
すべての人間は善であり、正しい存在なのだという前提に立っているからこそ、
正しいのなら、出来て当然、そうあるべきだ、そうあらねばならない・・・。
ということになるのです。

しかし聖書・バイブルは、そのようには語りません。
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙3章23節・口語訳聖書)

ここで言われている罪とは、
私たちがときどき犯すあやまち、
交通違反や道徳に反する行為などを言っているのではありません。

それらを引き起こさせる、それらの根にある人間としての本質を言っているのです。

聖書・バイブルは、人間は、みな正しい存在だとは言っていません。

しかし、私たちはそのようには考えません。
”あなたは罪人だ ”と言われれば、
なんと失礼な、まったく不愉快だ・・・ということになるでしょう。

しかしです。
私たちの苦しみ、私たちの悩みというものは、
本当の自分の姿が見えなかったり、
何とかして自分を変えたいとあがきもがいている、
その悲鳴ではないでしょうか。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。」

(旧約聖書・預言者エレミヤの言葉・エレミヤ書17章9節・新共同訳聖書)

キリスト教の、人の見方、ものの見方というものは、
人間は基本的に盲目で、愚かで、弱いものだという認識に立っていることです。

そのような認識に立たなければ、
そこから抜け出すことはできないのです。

もしも、人間がものの道理がよく分かり、賢い存在なら、
私たちを取り巻いているさまざまな問題や困難や危機というものが、
すべて説明できなくなります。

まわりを見渡してください。
私たちは、立つべきところを見誤っているのではありませんか。

「彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、
その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
それは神の義を示すためであった。
すなわち、今までに犯された罪を、
神は忍耐をもって見のがしておられたが、
それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、
さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。
全くない。
なんの法則によってか。
行いの法則によってか。
そうではなく、信仰の法則によってである。
わたしたちは、こう思う。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章24〜28節・口語訳聖書)

人間なんて、正しい人など、ひとりもいないと思えば、
自分の弱さや、他の人の弱さを、気がねなく遠慮せずに、
心おきなく見つめることができるのではないでしょうか。

そうであればこそ、ものごとを、冷静にありのままに見ることができるのです。

人間の弱さ愚かさを見出せば、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・を。
キリスト・イエスの救いの手が差し伸べられていることを・・・。
救いの手が差し伸べられていることを見いだすはずなのです。
キリストとは、救い主、メシアのことです。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on March 31, 2016.