いじめは犯罪
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未成年がかかわる事件が相次いでいます。
未成年であるがゆえに知らされず公開されずにある事件は多々あります。
それが教育の現場での出来事であればこそ、
人が死んだ出来事であっても、
教育の現場で起きた出来事は、
教育にかかわることなので警察ざたにはしないという原理・原則が働いています。
こと日本では、
人はもともと善なる存在として生まれてくるが、
人間は、もともとけがれのない者として生まれてくるが、
社会の悪や環境によって人は悪くなると考えるのです。
ですから、
教育の現場で起きた出来事は、
本人が心を再生産して出直してくることを期待して、
過失にたいしては教育というチャンスを与えるという考えが支配しています。
もともと悪くはないのだから、
再教育によって更生のチャンスを与えると。
過失にたいして、重い償いを与えて、
再び罪を犯させないようにするという、
犯罪の抑止として作用させる考えはありません。
未成年だから罪に問われないから、
過失を問われても軽い処分で済むから・・・・と。
だから、未成年がかかわる事件が多発するのです。
学校中の窓ガラスを、何かの腹いせにたたき割っても、
無免許で車を運転して事故しても、
未成年だから罪に問われない・・・と。
問われても軽い罰で済むと。
刑事罰には問われず、済みませんで済む・・・・と。
という考えが心の底にあったとすれば、
なんと罪深いことでしようか。
日本では、人はもともと善なる存在だから、
けがれのない者として生まれてくるのだから、
再教育のチャンスを与えることによって立ち直おさせることができると考え、
懲罰を罪の償いと考えないのです。
聖書・バイブルは、
キリスト教では、
人は、ときどき罪を犯すから罪深いのではなく、
常に罪深いから、ときどき罪を犯すのだと・・・・。
人は、もともと持っている善によって、
行ないによって心を入れかえることができる・・・とは考えないのです。
つまり、生まれながらに罪深い存在として生まれてくるので、
善など、もとから持って生まれてこないのです。
「 ああ、私は咎ある者として生まれ、
罪ある者として母は私をみごもりました。」
(旧約聖書・詩篇・51編5節・新改訳聖書)
「 すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新改訳聖書)
だから、神の力にたより、
神にすがらなければならないのです。
それが信仰であり、
救い主キリストに聞き従うことが信仰なのです。
人間が、善なる存在でないということは、
生まれながらの罪の体質ということは、
最初の人間アダムがエデンの園で神に背いて、
禁断の果実を取って食べたという出来事に始まり、
神の背き、楽園を追放され、人生に死が入り、
労苦して人生を歩まなければならなくなったのです。
・・・人間は、常に罪を犯す危険性を背負っている、
だから教育しなければならない・・・・。
いや、救われなければならない。
それが本当の教育かもしれません。
救い主・神のひとり子イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、
私たち人間は、神の目から見て、
堕落している証拠なのです。
逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
救い主・キリストが、この世界に生まれ来る必要などないのですから。
もちろんのこと神への背きの罪には、
神の裁きが待っています。
裁かれるのは神ですが、
また、神の裁きから救ってくださるのも神ご自身なのです。
北白川 スー
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Wrote up on 13 July, 2012.