クリスチャンでない家族
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クリスチャンでない家族を持つ身として、
かつて経験したことのない新鮮なこととして、
イエス・キリストに出会うという経験をへて信仰を持つようになったわけです。
しかし、キリスト教の教理や教義というものを、
キリスト教の教えをしっかり理解して信仰を持ったわけではありません。
難しいことが分からなくても信仰は持てるからです。
教会での生活は、
すべてが目新しく新鮮でおもしろいものですから。
毎日曜日に行われる礼拝にも欠かさず出席するようになり、
教会の活動にも熱心にかかわるようになりました。
そのようなクリスチャンに、なったわけですが、
家族の理解があったというわけではありません。
なかには、家族から教会に行くことすら反対されている方もおられます。
もちろん夫はクリスチャンではありません。
・・私はクリスチャン・・だと言えば、
冠婚葬祭などの近所や親戚との付き合いや、
正月やお盆、節句などの祭ごとにも何かとトラブルが待ちかまえています。
何かとさわがしい信仰生活の中で、
その中で、夫や家族が信仰を持つようにと、毎日祈っていますと妻が言う・・・・。
私が所属している教会にも、
夫がクリスチャンでない女性の方がおおぜいおられます。
当のクリスチャンでない夫は、何と言っているのでしょうか。
「教会とはかかわりたくない、私を巻き込まないでくれ。」という言葉をよく聞きます。
彼らは、教会に何を見て、
またクリスチャンである妻に、何を見て、
”かかわりたくない”と言ったのでしょうか。
さて、
キリストに出会ってクリスチャンになったけれど、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざについての理解は、
どうやら後回しになっているようです・・・・。
ありえますね。
すべてのクリスチャンが、イエス・キリストの十字架の出来事の解き明かしを聞いて、
そして、気付いて、回心したわけではないはずです。
教会活動と奉仕に熱心に明け暮れる妻・・・、
置き去りにされる夫・・・。
教会活動に熱心になるあまり、
十字架の理解が置き去りにされてきたとしたら。
それが現実の信仰生活なのかもしれません。
そうではなくて、
クリスチャンになった途端に、
何かをしなければならないと行為に走り始める前に、
イエス・キリストの十字架の出来事に正面から向き合っていたなら、
少なくともこうはならなかったはずです。
すべての人の罪をその身に担い、
罪人として十字架にかけられ死刑となった、
イエス・キリストの十字架の出来事が理解できない場合は、
イエス・キリストが自らの命をささげることによる、
私たちの罪を”あがなう ”という出来事が理解できなければ、
信仰生活の実態は、
行為に走ることによって、自分を癒そうとします。
聖書・バイブルは、
決して、自分を自分で癒すことなど出来ないと語ります。
行いによってでは、自分を救うことなど出来ないのです。
人を救うのは、キリストの十字架の出来事だけなのです。
「なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)
人間が苦しみから逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
メシア・救世主・キリストがこの世界に来る必要はなかったはずです。
私たちは”罪 ”の中にどっぷりとつかっているのです。
教会の活動や奉仕に熱心なのは、
苦しみの中の”あがき ”なのかもしれません。
イエスの十字架の出来事の意味が分かるなら、
イエスがキリストであることも分かるはずなのです。
どうでしょうか、クリスチャンでない夫は、
妻の後ろ姿ばかり見ていて、
肝心のイエス・キリストの十字架の出来事は見えていたのでしょうか。
世の男性であっても、
この激動と混乱の中にある社会にあって、
もがき苦しんでいるのではありませんか。
男性こそ、魂の安らぎを求めているのではありませんか。
教会とはいったいどういう所ですか。
イエスは言われました。
「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」
(新約聖書・マルコによる福音書・11章17節・新改訳聖書)
教会においてこそ、「神の恵みは」、
すなわちイエス・キリストの十字架の出来事によって明らかにされた、
私たちにたいする救いと和解のわざは、
生きて働いておられるイエス・キリストの人格と言葉においてこそ理解され礼拝されるところなのです。
教会での礼拝においてこそ、
私たちにたいする救いの言葉が語られるところであり、
和解の言葉か語られるところであり、
それに応答するところなのです。
私たちは、この混乱の世界に生きています。
だからこそ、その世界の中に教会が存在する意味があるのです。
決して、礼拝の間だけ、日常から、家庭から、人間関係から切り離すものではありません。
イエス・キリストは、わたしたちすべての民の”あがない主 ”なのですから。
「わたしたちはこの御子において、
その血によって贖われ、罪を赦されました。
これは、神の豊かな恵みによるものです。」
(新約聖書・エペソの信徒への手紙・1章7節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on March 29, 2016.