罪な人



あなたは ”罪な人”と言われれば、悪い気はしないでしょう。
女性に好かれるモテる男性ということになるからです。

では、
あなたは ”罪人”ですと言われればどうでしょうか。
言われた人の心の内は、おだやかではないはずです。
決して気持ちのよいものではないからです。
まして ”愚かな人 ”とでも言われれば、
バカ呼ばわりされたと思って、
そのような見られ方には従うことはできず、
ひどく怒られることでしょう。

聖書・バイブルでは、人に向けて具体的に指し示しています。
すべての人は、罪人だと。
”あなたは、罪人である ”と。

「 では、どうなのか。
わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。既に指摘したように、
ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9〜18節・新共同訳聖書)

すべての人は、罪の下にある・・・・。
いったい自分の何が罪なのか・・・。

聖書・バイブルが言うところの ”罪 ”とは、
それは、人間の本質的な、本性的な罪深い性質を言います。
生まれながらに負っている罪深い性質のことを言います。
”原罪 ”ゲンザイと言われるものです。
人間の思いや言葉や行為行動を作り出している源のことなのです。

しかし、日本の多くの人は、
自分の性質は罪深く、罪にとらわれているとは、
ほんのひとときも考えたことはないでしょう。
人間には罪があるという考えにも賛成できないでしよう。
頼れるものは自分自身であって、
自分の、ものの見方や考え方ややり方に信頼し、
自分を疑うこともなく信じています。

自分の可能性を信じて活かしきって行く生き方こそ、
人間として素晴らしいことなのだと信じているはずです。

頼れるものに価値するのは自分自身なのだから、
イエス・キリストが、すべての人の罪を背負って、
十字架にかかろうが、命を落とそうが、
それは、意味を持たないし関係ないことだと。

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。
心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。
それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」

(旧約聖書・エレミヤ書・17章9〜10節・新共同訳聖書)

人の心を理解し、
堕落から救いだそうとされた方は、いったいどなたでしょうか。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、
その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。
このように神は忍耐してこられたが、
今この時に義を示されたのは、
御自分が正しい方であることを明らかにし、
イエスを信じる者を義となさるためです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜26節・新共同訳聖書)

メシア、救い主として、神のひとり子イエス・キリストが、
この世界に生まれ来たということは、
この世界が、創造主なる神から見て堕落している証拠なのです。
すべての人が罪の下にあるのです。
逃げることも救われることもできない状態でなければ、
救い主など必要とはしないのですから。

すべての人間は、創造主なる神にたいして負債を負っています。
その負債は、返済しなければならないものなのです。
その負債は、決して消滅するものではないのです。

すべての人間に代わって、
その負債を命をもって返済してくださったのがキリスト・イエスです。
その”キリスト・イエスの十字架のわざ ”を事実として認め信じることによって、
負債から抜け出すことが出来る・・・・。

ところが、こと日本では、
負債にたいしては、
徳を積み重ねることによって減じられ、
取り除かれるという考えが伝統的にあります。
つまり情状酌量という考えです。

人間は、けがれのない存在として生まれてくるが、
育て方や、社会の環境などで悪くなると。
だから、同情すべき事情を考慮しなければならないと。
もともと悪くはないのだから、再教育によって債務を免じようと。

聖書・バイブルは、
人間は、生まれ落ちるとともに、自動的に、
決して消えることのない債務を受けることになると言っているのです。
ですから、契約は、定められたことを、
その通りたえず実行することを求めているのです。
決して、情状を酌量しないのです。

この違いは決定的です。


北白川 スー

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Wrote up on December 25, 2013.