自分の愚かさに気づいて初めて・・罪の自覚
それまで気にもせず見落としていた、
自分の愚かさに気づいたとき、初めて、
人にやさしくすることができるようになるのです。
それは ” 愛を知ったから ” です。
自分には愛が必要なのだと・・・・・、
だから愛を返すことができるのです。
イエス・キリストは語っています。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」
(新約聖書・マタイによる福音書・22章39節・口語訳聖書)
自分の罪深さを自覚した者が、愛を知り人にやさしくすることができるのです。
聖書・バイブルは次のように語っています。
「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章20節・口語訳聖書)
自分自身が罪深い存在だと知って、初めて自分にたいする見方が変わるのです。
自分自身を見ることができない人なら、
自分を客観的な目で見ることができないなら、
第三者的な目で自分を見ることができないなら、
救いへとは進むことはてきません。
自分自身が罪深い者だと知って、初めて自分に対する見方が変わるのですから。
愛の必要性を知るのです。
だから、人にやさしくできるし、
自分にたいする神の愛を、
イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださった出来事も理解できるのです。
「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
愛することのない者は神を知りません。
神は愛だからです。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・4章7〜11節・新共同訳聖書)
罪の自覚のない人は、神が分からないのです。
しかし、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
” あがないのいけにえ ” として、
神のひとり子イエスをおつかわしになったという出来事・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事・・・・、
すなわち福音に接したとき、
初めて神の愛を知ることになるのです。
愛の必要性を知ることになるのです。
イエス・キリストは、私たちのために、
はずかしめられ、ののしられ、むち打たれ、
苦しみを通して十字架にかかって死んでくださったのですから。
北白川 スー
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Wrote up: 25 June 2009.