教会の証し、クリスチャンの証し



証しと言えば、多くの場合、信仰体験として、
クリスチャンが、・・どのようにして信仰を持ったかという証し・・を証しとして聞きます。

しかし、聖書では、証しのことを、
イエス・キリストの事柄、出来事についての証明として。
イエス・キリストの死と復活についての証言を証しとして用いています。

「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。
その神が証ししてくださることですが、・・・・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章9節・新共同訳聖書)

イエス・キリストの受難と死という、
神のひとり子の十字架による死という、
とうてい人間の言葉では言い尽くせない、言い表せない、
おどろくべき御業・出来事を聖書は証ししているのです。

イエス・キリストの十字架の死による贖いの業
・・あがないのわざ・・という出来事の内容と意味とを、
説き解き明かしすることこそが証しなのです。

イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事を語り伝えることが、
まことの証しなのです。

クリスチャンの信仰体験の証しの中に、
その信仰との関わりにおいて、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事が、
抜け落ちているとしたら、
その信仰には、支えも、礎も無いことになります。
酷な言い方ですが・・・・。

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章16~17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on July 29, 2018.