聖書的とは・・



クリスチャンが、100人に一人いるかいないかの。
キリスト教が少数派のこの日本において、
未信者の方に、ノンクリスチャンの方に、
少しでもキリストの福音を伝えることができればと、
ネットの世界で小論を書き続けていますが、
意に反して、クリスチャンからのレスポンスのほうが多く、
悩み多いのは、クリスチャン自身なのだと思い知らされています。

言い方を変えれば、
クリスチャンの信仰が、また教会が、
なぜに聖書的なものにならないのだろうか・・・ということです。
このような言い方をすれば、
聖書的とは、どういうことなのですか・・・、
・・という問いかけが寄せられるのも事実です。

教会であれ、クリスチャンであれ、
神の意志に従って歩みを進めることが求められているわけです。
キリストに聞き従うとも、
キリストのみこころに従うとも・・・・。
キリストの言葉を信じて生きて行くとも・・・。

いや、すべての人にたいして創造主なる神は求めているのです。

その証しこそ、神の怒りの啓示の出来事・・・。
キリストの福音、すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

この出来事こそ、
クリスチャンであれノンクリスチャンであれ、
私たちひとりひとりの生き方の姿勢を問うものなのです。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。
その目的は、生きている人たちが、
もはや自分自身のために生きるのではなく、
自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14〜15節・新共同訳聖書)

信仰とは何でしょうか。
信仰生活とはなんでしょうか。

つまり、自分の行動の別や精神のありかたを深く見つめることなのです。
神の意志に従った暮らしを築いているのかどうかを、
聖書・バイブルの言葉に従って、たえず見つめ直すことを求めているのです。

しかし、
私たちは間違いなく、神の創造をないがしろにしています。
私たちは間違いなく、神の意志に従ってはいません。
だから、創造主なる神は、私たちに神の啓示を明らかにされた。
神のひとり子イエスの命を十字架にささげることによって・・・。

よく言われることですが、
日本の教会は、暗く沈んでいると・・・。
閉塞感に満ちていると・・・。
何かでふさがれているのか、閉じられているのか。
教会の外との連絡がつかない状態にあると。

日本の多くの教会は、社会に背を向けた、
内向きに運営されているわけです。
社会のなかに、それだけ社会に傷ついた人たちが多いく存在しているからではありません、
そうだから教会が社会の中で機能しているわけではありません。

ごく限られた世界に教会は機能しているのでしょうか。
そうではないはずです。
キリストの福音は、神の啓示は、すべての人に明らかにされたものです。
神が求めている私たちの暮らしむきとは、
天国への希望から解き起こされてくる現実への対応ということです。
自分たちの行動の別や精神のありかたを深く見つめることなのです。
キリストの福音は、経済に経営に教育に医療に家庭に地域社会に・・・。
すべての人間の営みに影響を与えるものです。

日本のキリスト教の教会が、信仰が、
仮に、スタート・ラインが違っていたなら。
神の意志に聞き従うという、
本来の目的やビジョンや本質から外れたところから始まっているとしたら。

常に、キリストの福音は説かれ解き明かされているのだろうか。
一般信徒に知らされているのだろうか。
それとも、置き去りにされているのだろうか。
影響されることを恐れて知らなくていいのだろうか。
本当に福音は届いているのでしょうか。

今、日本のクリスチャン自身に求められているのは、
自分の信仰に疑いと問いかけを持つことではないでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on May 05, 2014.