傷つき疲れた人へ



おおむね教会にやって来る人たちは、
社会の人間関係に傷つき、疲れはて、
引きよせられるようにキリスト教の教会のトビラを開けたはずです。

「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(新約聖書・マタイによる福音書・11章28〜30節・新共同訳聖書)

その時、トビラの内側で、キリスト教のの根本的な理念が語られていたならば、
神の啓示が、
神の啓示の出来事が、
すなわち、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざ、
という出来事の内容と意味とが説かれ解き明かされていたなら、
その人は、キリスト・イエスに、ありのままの自分を受け入れられたはずです。

しかし、教会の外の世界と同じような価値観が語られていたならば、
その人は、失望を覚えて去って行かれたことでしょう。

家庭であれ、職場であれ、学園であれ、
その中で、これまで築きあげてきた、
努力してきた自分の仕事や役目や働きが、
なんら評価されていなかったことを知り、
自分の存在はいったい何だったのだろうかと、
失望を覚えられた方が。

ある人は、何をやってもうまく行かず、
まわりから役に立っていないかのように見られて・・。

ある人は、今の自分の窮状は、すべてまわりが悪いのだと・・。

そのような人たちがキリスト教の教会に、またクリスチャンに期待し求めているものは、
自分の存在に意味があるものであり、役に立っていたという評価の言葉なのです。

自分の存在が評価されないことほど屈辱的なことはありません。
しかし、
人間に傷つき、つまずきを覚えた人が教会にやって来て、
外の世界と同様に、人間に受け入れられることを求めたなら、
キリスト・イエスではなく、人間に求めたなら、
再び人間につまずくのは目に見えています。

ネットで、クリスチャンとしての小論やエッセイを公開配信していますと、
教会の中の人間関係に傷つき、
教会を去らなければならなくなった方からのメールをよく頂きます。

そのようなとき、その教会では、
常に”キリストの福音 ”が語られていたのだろうかとさえ思わされるのです。
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが、
説かれ解き明かされているのだろうかと・・・・。

人間の言葉が欲しいのは、よく分かりますが・・・、
教会で、福音を聞き、そして知り、信仰をもったのではありませんか、
そして、福音の中に生きようと心に決めたのではありませんか。
しかし教会も人間の集まりです。
複雑な人間関係がある共同体なのです。
善人の集まりではありません。
罪人の共同体なのです。

ですから、教会では、くり返しくり返しキリストの福音 が、
イエス・キリストの十字架の出来事が語られなければならないのです。

よく「信仰の中に生きる」と言われますが、正しくは「福音の中に生きる」ではないでしょうか。

家庭にも職場にも居場所がなくて、居場所を求めて教会に来たのに、
やっとのことで見つけた教会で信仰に生きようと・・・、
しかし、教会にも受け入れられず・・・、正しくは教会の人間関係にでしょ。

教会とは、社会の中で役割を持ったひとつの施設ですか、
イベントやコンサートやバザーや幼稚園や学校や病院や・・、
人の知恵と技術とによって管理され実行される施設ですか。

そうではないはずです、
神の、その栄光を、いかなる人間といえども、
犯すことも、肩代わりすることもできない神の意志が、神の恵みが、
”みこころ ”と言われるものが語られ理解されるところなのです。

そうであればこそ、人は、キリストの中に憩うことができるのです。
教会においてこそ、イエス・キリストの人格にたいしてこそ礼拝されるところなのです。
人間に傷つき疲れた人が、神の前に進み出て、神の愛の中に抱かれ憩うところなのです。

その神の恵みこそ、
神の愛こそが、
神が人間のところに、人として来られ、人間のもとのなられたという、
イエス・キリストの十字架の出来事であり、
福音と言われるものであり、
イエス・キリストそのものなのです。

イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
それは、だれへだてなく”あるがままの人間 ”を受け入れてくださった出来事なのです。

誰も誇ることを許さず、あるがままに進み出ることを許す、
ただひとつの聖なるところ、それがキリストの教会なのです。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

教会は、”人間が神に聞く ”というただ一つのことによって、
神が人間に語られることを聞くことによって、
基礎づけられ、支えられていることを忘れないでください。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、
地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、
その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
あなたがたのある詩人たちも、
『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」

(新約聖書・使徒の働き・17章26〜28節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 31, 2015.