あるもどかしさ


 この日本、キリスト教の布教・宣教には、長い歴史があります・・・。

 しかしながら、クリスチャンは、ほんのひとにぎり、

 全人口の1パーセントにも満たない。

 別の信頼のおける統計調査では6〜7パーセントという数字はありますが、

 まったく実感として伝わってはきません。

 日々の暮らしの中にキリスト教の香りすら漂ってはこないのですから。

 キリストの福音は、

 だれひとりの例外もなく、

 すべての人に向けて語られ、伝えられるものなのです。

 ここではっきりさせておかなればならないのは、

 すべての人は、罪にまみれているということです。

 すべての人は、生まれながらに罪深い存在なのだと・・・。

 生まれながらに負っている罪深さが、

 思いとなって、言葉となって、行為となって、

 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。


 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、・・・」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・新共同訳聖書)


 すべての人が、罪の中にあることを前提としなければ、

 自分は罪深い存在なのだと認識しなければ、

 罪にまみれていることを認識しなければ、

 キリストの福音も、また ” 救い ” についても意味を失ってしまいます。

 言い換えれば、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされてこそ、

 イエスの十字架の出来事の内容と意味とを聞いてこそ、

 私たち人間が、罪にまみれていることを認識させるのです。

 さらに、そこから脱出させるのも、

 イエス・キリストの十字架の出来事そのものなのです。

 この日本では、一般に、イエス・キリストの十字架の出来事を聞く機会はごくまれだと言っていいでしょう。

 いいえ、ほとんど聞く機会は無いと言っていいのです。


 「私は福音を恥とは思いません。

 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、

 信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、

 その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。

 「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、

 神の怒りが天から啓示されているからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16〜18節・新改訳聖書)


 私たち日本人は、特に、恥を嫌う性質があります。

 プライドが高く、罪という言葉も嫌います。

 しかし、私たち人間が本性的に、

 生まれながらに愚かで弱いものであるという認識に立たなければ、

 そこから抜け出すことも自由になることもできないのです。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事こそ、

 私たち人間に、人間の本性を明らかにし認識させるものなのです。

 罪にまみれていることを認識しなければ、

 そこから脱出することもできません。

 自覚できなくても ” 罪が止められない ”のなら、なおさらのことです。


北白川 スー

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Wrote up on 26 September 2010.