ひとりの人がすべての人のために死んでくださった


 キリスト教の言う福音とは、

 私たちの暮らしの中で、”何をすべきではない ”・・と言うことではない。

 何をしてはいけない・・・ということではなく、

 それとは別に、それらの外にあるものを目指しているのです。

 決して規則とか戒律と言ったものが福音ではない。

 この日本の社会の中で、

 さまざまに、そうあるべきだとされているこの日本の社会の中で、

 地域社会や、コミュニティーの中や、共同体の中で、

 クリスチャンとして生きようとすれば、

 さまざまに制約が生まれてきます。

 人の誕生から死にいたるまで、

 正月に始まって盆や暮れといった社会の習いの中で・・・、

 すべてにわたってクリスチャンすることは大変なのです。

 しかし、クリスチャンは、そのような制約の中で苦しまなければならないことはないのです。

 決して苦しむことはない・・・・。

 すべてから自由になり、解き放たれているのだから。

 見方を変えれば、

 新しいリーダーなのです。

 新しいリーダーシップを持っているのです。

 クリスチャンになったということは、

 新しく生まれ変わったということであり、

 日常生活においても、

 生活様式においても、

 すべてが新しくなったのだから、

 何をすべきではない・・・・ではなく、

 それでは真実に従っては生きていくことはできません。

 新しい暮らしとは、新しい生活とは、

 クリスチャンとして生きることによって、

 主イエスを証しすること、

 イエス・キリストの価値観を実践することなのです。

 すべての時間の中で・・・。

 この日本にとって、新しい暮らし方の創造者なのです。

 キリストの福音とは、

 ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・という出来事だからです。


 「 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

 わたしたちはこう考えます。

 すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、

 すべての人も死んだことになります。

 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。

 その目的は、生きている人たちが、

 もはや自分自身のために生きるのではなく、

 自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14〜15節・新共同訳聖書)


 しかし残念ながら、この日本では、

 キリストの価値観が、

 創造豊かな・・・・、

 もっともモラルの高い人間社会を築き上げるものなのだとは語られてはいません。

 それも、イエス・キリストの十字架の出来事によって・・・・・。

 ・・この地に御国(みくに)を来らせたまえ・・


北白川 スー

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Wrote up on 11 August 2011.