救われたと思うとき


 キリスト教の信仰では、よくこの”救われた”という言葉を耳にします。

 救われたということは何を意味しているのでしょうか。

 自分は愚かな存在であったことに気づき、

 迷いの中にあった自分の人生に気づき、

 自分の目や気持ちが外に向かって開かれたとき・・・。

 信頼できる新たな価値観を、それも気高く気品に満ちた希望に満ちた価値観を見出したときと言えます。


 なかなか自分のありのまま姿というものは見えないものです。

 自分自身を、自分の外から自分の姿を冷静に観察することはなかなか難しいものです。

 しかし、自分の愚かしい姿に気づいたとき・・・・。

 見えていなかった、ありのままの自分の姿に気づいたとき・・・。

 初めて外に目を転じることができるのです。

 すなわち、イエス・キリストを信頼できる存在として対象として見い出すことができるのです。

 それは、イエス・キリストに見出されたときとも言えます。

 つまり、イエス・キリストに見い出されるということは、

 自分がすっかり迷っていたことを自覚したときなのです。


 自分の愚かさというものは、自分ではなかなか見えないものです。

 自分の状態が、思いや考えや行動といったものが、

 完全に行き詰まり絶望的なものになって初めて、気持ちの持ち方というものに変化があらわれるものなのです。

 自分の過ちを見出したとき、過ちを犯していたと気づき認識したときなのです。


 キリスト教では、すべての人間はもともと道に迷っていて、つねに誤った方向に行こうとしていることに気づいていないと考えます。

 人間は生まれたときから罪の中にあり、罪深い存在だと言っているのです。

 日本の多くの人は、この考えかたには賛成しないでしょう。

 自分を信じ、自分の可能性を活かしていくことがもっとも大切なことだと考えているからです。


  「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」

 (新約聖書・ガラテヤの信徒へのパウロの手紙・1章4節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストは、わたしたちの父なる神の意志に従い、わたしたちを迷いの中ある世界から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪深さのためにささげられたのです。


  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)


 救われるために、何をしなければなりませんか・・・・・。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

表紙にもどります。

エッセイの部屋・バックナンバーへもどります。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up: 21 January 2009.