御言葉を聞くことのない日本



 「 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、

 あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。

 人はパンだけで生きるのではなく、

 人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

 (旧約聖書・申命記・8章3節・新共同訳聖書)


 キリスト教の教会では、

 使われることについて、

 何の疑いをはさむ余地がないように、

 当然のようにして聞こえてくる単語に、

 漢字で「御言葉」と書いて、”みことば ”と読むわけですが、

 その”みことば ”であっても、

 その内容と意味とが、どれだけ説明されているのだろうか。

 ”みことば ”とは、神の言葉のことです。

 聖書・バイブルに書かれている文章が、

 私たち人間にたいして、

 すべてのものを創造された創造主なる神が、

 神の作品であるところの被造物としての人間にたいして語られている、神の言葉だと・・・。

 ますます訳が分からなくなってくる。


 「 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、

 人を教え、戒め、誤りを正し、

 義に導く訓練をするうえに有益です。」

 (新約聖書・テモテへの第2の手紙・3章16節・新共同訳聖書)


 しかし、その前に、

 もっと具体的で本質的な説明が語られていることに、

 心を留め置かなければならないだろう。


 「・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

 (新約聖書・テモテへの第2の手紙・3章15節・新改訳聖書)


・・・キリスト・イエスにたいする信仰による救いを受けさせることができる・・・・。

 ”信仰による救い ”こそ、

 キリスト教の信仰の本質的なテーマなのです。

 聖書の言葉は、つまり”みことば ”は、

 その言葉によって、

 私たちを、

 正直に自己とむきあわせるよう、

 導き、仕向けるのです。

 私たちは、やはり現実から逃げたいと思うものですが、

 しかし、聖書の言葉は、

 どうしても、現実にたいして正面きって向き合わせる、

 いや、立ち向かわせるものなのです。

 メディアから流れてくる、

 本質から離れた、建前だけの、

 真実を語らない言葉ばかり聞かされる日本にあって、

 真実を指し示す”みことば ”が、

 今まさに必要とされている日本ではないかと。

 ”みことば ”は、次のように言えるかもしれない。

 ”みことば ”が私たちに向かって語られるとき、

 聞く者の、心の奥底を映し出すことによって、

 私たちの本当の姿を示すことによって、

 私たちの、見せかけの姿や弱さを、

 はっきりとさらけ出すのです。

 決して聖書の言葉は、

 私たちの生き方や考え方ややり方を肯定するものではない。

 決して聞く者の生き方にたいする肯定的な励ましを与えるものではない。

 聞く者にとってとても厳しいものなのです。

 だから”みことば ”たるのです。

 神の前に立つことをしない日本、

 それが日本の現実かもしれません。

 自分の生き方を肯定するものが救いだと思っている人がいるなら、

 ”みことば ”が語る救いとは、

 何からの救いなのか、

 ”みことば ”から聞かなければならないことになる。


北白川 スー

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Wrote up on 25 June, 2012.