キリストの福音とは何か
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 キリストの福音とは、
 まぎれもなくイエス・キリストの十字架の出来事そのものなのです。
 イエスの十字架による死と、葬りと、三日の後に死人のうちから復活したという出来事・・・。
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事そのものなのです。
 つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
 神を中心とする同心円のふちに人間は存在しています。
 すべての人の神との距離は、みな同じなのです。
 言葉や肌の色の違いや、富める人も貧しい人も、
 健康な人や病苦の中にある人も、強い人も弱い人も、
 それらの違いをすべてを乗り越えるもの、
 それがキリストの福音なのです。
 イエス・キリストの十字架の出来事は、
 神から同じ距離に位置する人間にたいして示されたもの・・・、
 言い換えれば、神の啓示そのものなのです。
 この世界を造られた創造主なる神が、
 被造物であるところの人間にたいして、
 究極の決断と態度決定という形において、
 私たち人間に示され語られていることがらなのです。
 私たち被造物としての人間は、
 神から与えられた啓示を・・・。
 ただ、受け入れ承認することしか道は残されてはいないのです。
 神の啓示としての福音の真理にたいして、
 人間の理性は関わることはできないのです。
 福音の真理を、私たちの意思で変質させることはできません。
 だから、ただ信じるしかない・・・。
 神が人を求めておられるのであって、
 神が真の礼拝者を求めておられるのであって、
 人が自分の都合で、
 その人の立場だけを中心として神を探すのではないのです。
 自分の望みを聞いてくれて、
 かなえてくれる神を探すのではないのです。
 キリストの福音は、すべての人に向かってやってくるものなのです。
 私たちは、ひとりの例外もなく、
 創造主なる神にたいして罪を負っています。
 つまり本性的に、神にたいして、生まれながらに罪深い性質を持って生れてくるのです。
 その罪深さという性質が、
 思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
 自分の罪深さに気づいていない人もいます。
 多くの人が、本当の自分の姿に気づいてはいません。
 私たちは人間は、そのような状態から逃げることも、
 救われることもできないのです。
 混乱の中にある現代の世界は、
 1分間に17人が飢餓で死んでいるといわれ、
 日本は「中」意識で平安をむさぼろうとしています・・・。
 それが人間の本当の姿なのです。
 だから、救世主・メシア・キリストが、
 この世界に生まれ来たのです。
 それが、創造主なる神の、被造物にたいする神の愛なのです。
 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、
 永遠の命を得るためである。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)
 しかし私たちは罪人であることを認めようとはしません。
 だから、創造主なる神の存在を明らかにしなければ、
 人間の罪も分からないし、
 救いについても分からないのです。
 神の啓示についても分からないのです。
 世の中は、不正や、不品行や不道徳、そして浪費・・・・。
 まさしく罪にまみれた人間の姿そのものなのです。
 なぜイエス・キリストは、ご自身の命を、
 おしまずささげてくださったのか、
 そして、なぜ死人のうちから復活されたのか。
 私たちの罪深さをその身に負い、
 私たちに代わって神の怒りを受けてくださったのです。
 福音は神から来るものであって、
 私たちが探すものではないのです。
 言い換えれば、希望は神からやってきます。
 決して人間の望みをかなえてくださるのが神ではありません。
 神は、私たちが生まれ変わることを求めておられるのです。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」
北白川 スー
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Wrote up on 20 September 2011.