罪と、罪の深刻さ


 最近のキリスト教は、罪だ罪だと言わなくなったのかもしれません。

 罪だ罪だと言わなくなってから長い時間が流れたのでしょうか。

 キリスト教は罪だ罪だと言って嫌いだという人も見かけなくなったようです。

 しかし、キリスト教こそ、人間の本性を直視する・・・・・、

 人間の真実を正しく見つめる宗教だったはずなのです。

 救い主イエスがこの世界に生まれ来たということは、

 私たちは、自分で自分の罪を克服できない罪人である証拠なのです。

 私たちが救い主を必要としているのは、

 罪と罪の深刻さゆえなのであって・・・・、

 中には、自分は正しいから、正しいからこそ、この悪の社会から自分を救い出だしてくれるメシアが来なければならない・・・・と言う人もいます。

 自分は正しいから、この悪の世から救われなければならない・・・・・と。

 聖書・バイブルは、

 ”やがて来る神の怒りから私たちを救ってくださるお方 ”が必要であると語ります。

 神が怒っているほど人間は堕落している・・・・。

 いえいえ、人間は、もともとこの世界を造られた神とは、とても良い関係だったのです。

 それが、最初の人間が神に背いたものだから、

 人間を造られた神に従わず、それに反した行動をとったものだから、

 創造主なる神の怒りを招いてしまったのです。

 それ以来、それに続く人間たちは、罪深さの中で、

 呪われた者となってしまったのです。

 それが、結果として引き起こされた、私たちの状態そのものなのです。

 ですから、人間の救いは、創造主なる神との和解がなければ来ないということなのです。

 日本のキリスト教の場合、イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事というものの解き明かしと、

 そしてその出来事と密接な関係にある、神の怒りと裁きという問題の解き明かしとが・・・・、

 なぜか教会では、あまり語られる機会がきわめて少ないので、

 なおさら理解することを難しくしているのです。

 関連しあっているこの二つテーマが解き明かされて初めて、

 神との和解、罪の赦し、人間の救いというテーマが明らかになるのです。

 人間というものは、目の前に迫っている問題にとらえられる性質があるようで、

 その問題によって目が閉ざされてしまうとでも言えるので、

 さらにその奥に隠されている、

 物事の中心となっている、核心とでも言える問題から目をそらされてしまうのです。

 人が生まれながらに持っている頑な(かたくな)さが、

 神の教えを聞いたり理解することを妨げてしまうのです。

 聖書・バイブルは、

 人間というものは、自分の力や知恵によってでは、

 正しさを行う能力は常にないと強調しています。

 人間は常に目の前のことに心をうばわれてしまう性質にあるからなのです。

 心がうばわれて目の前のことにとらえられるものだから、

 時間をかけて見つめなければならないテーマであるはずの、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事と、

 神の怒りと裁きについては・・・・・、

 つい置き忘れてしまうのです。

 人間は、いつも犯してしまう間違い・・・・、

 神の真理を偽りと取り違えてしまうという間違いを犯してしまうのです。

 根本的な事柄が解決されて初めて、

 今が解決されるはずなのです。


 「神の真理を偽りに替え、

 造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章25節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 24 September 2009.