罪のつぐない
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罪にたいするつぐないとして、
死というものが問題になっています。
日本の刑法では、明確に罪にたいする報いとしての量刑が、
罪にたいする罰の程度が明記されています。
しかし、日本の共同体は、
共同体の一員が犯した、
不正な、不当な行為にたいして、
当然受けるべき報いとして、
肉体的に精神的に苦痛を与えることが、
罪のつぐないとは考えないで・・・・。
罪にたいする罰とは考えないで、
再教育のチャンスだと考えるのです。
心の再生産を求めると言っていいでしょう。
出直しのチャンスを与える・・・、
社会的な教育だと・・・・。
”情状酌量 ”という考えです、
過失にたいしては、
教育することによって刑を減ずると・・・。
日本では、刑法によって量刑が明確にされていても、
検事や裁判官が、
裁かれる本人の改悛の情を判定する・・・・。
自分の犯した罪を悪かったと悟って、
あやまちをあらためて出直す意志があるかないかを判定する。
まじめになることを求める・・・・。
真面目に出直す気があるなら刑を減らそうと。
つまり、人間はもともと、そんなに悪人じゃないから、
過失にたいする教育によって立ち直らせることができる・・・と。
人間はもともと善なる存在であって、
社会の悪や環境せいで、
人は、道を誤り、悪くするわけで、
チャンスさえ与えれば、
その人は立ち直ることができる・・・と。
では、キリスト教においてはどうなのでしょうか。
聖書・バイブルは、
罪が支払う報酬は死だと明確に語っています。
肉体的な苦痛を与えることによって、
苦痛感の強さによって、
罪をつぐなえると考えます。
罪と、その罪にかかわる報いについて、
聖書・バイブルは次のように語ります。
「 罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)
罪の報いは死であると。
ここで語れる罪とは、
神にたいする罪のことです。
私たち人間は、
素晴らしいものとして創造主なる神によって創造されました。
最初の人間の生には死はありませんでした。
しかし、最初の人間が創造主なる神の命令に背いたため、
最初の人間アダムが神に背いて禁断の果実を食べたという出来事に始まる・・・。
その罪にたいする報いとして、
人間の生に死が入ってきたのです。
私たちの人生は死で終わります。
人生において死は、恐れを与えることになります。
この罪が、私たちの人生において、
思いとなり、言葉となり、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯すようになったのです。
しかし、私たちの人生は死で終わるのではありません。
その先があるのです。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2手紙・5章10節・新共同訳聖書)
この世の終わりのとき、
生きている者も、かつて生きていた者も、
神の前に立たされ裁かれるのです。
永遠の命が約束されている天国か、
苦しみが永遠に続く地獄へか・・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
私たちの、創造主なる神にたいする罪の代価を、
私たちに代わって、死して、支払ってくださった出来事なのです。
ですからイエス・キリストに信頼する信仰によって、
この神の裁きから救われるのです。
イエス・キリストを信じる信仰によって、
天国へ、永遠の命へと移される約束を手にすることができるのです。
私たちの生と死は、
それは神の領域に属するものであって、
私たち被造物としての人間には、
それをどうこうすることはできません。
現世において人間にたいして罪を犯した者であっても、
神にたいして、罪を悔い改めるなら、
その罪は赦されます。
人間の共同体が許さなくても、
神は赦してくださるのです。
イエス・キリストの十字架の死によって・・・。
北白川 スー
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Wrote up on 21 February 2012.