罪を犯した者は、償わなければならない



・・罪を犯した者は、つぐなわなければならない・・・。
このルールは、すべての人間にたいする神の定めです。
このルールなくして、キリスト教の信仰を語るわけにはいきません。

「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、
聖なる生活の実を結んでいます。 行き着くところは、永遠の命です。
罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章22〜23節・新共同訳聖書)

キリスト教が、根本的な原則としているものとして、
”原罪 ”ゲンザイ・人間が生まれながらに負っている神への罪、
生まれながらに負っている罪深い性質というもの。

原罪が、私たちの思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

このテーマを語らずしてキリスト教の信仰を語るわけにはいきません。

それが、私たちの現実の姿そのものだからです。
ひとりの例外もなく・・・・。

このテーマが解き明かされてこそ、
私たちを取り巻くさまざまな問題が解き明かされることになるのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストが十字架に死んだという出来事は、
”原罪 ”なくして成り立たないのです。

罪を認めない神のひとり子キリスト・イエスは、
すべての人間の、神への罪を、
ご自身の身に負い、十字架にかかり、
神の怒りを受けて死ぬことによって、
私たちの罪を償ってくださったのです。

この出来事こそ、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)なのです。

この出来事を信じることによって、
キリストの十字架の行為が、自分にも適用されるのです、
よって、必ずやってくる、神の怒りの裁きから救われるのです。

自分に代わってキリストが、自分の罪を償ってくださった・・。

・・罪を犯した者は、償わなければならない。・・
という原則が成り立ってこそ、キリスト教の信仰が成り立つのです。

しかし、この日本では、
肉体的苦痛によって罪が許される・・・という原則は明確ではありません。

常に、罪を犯した者は再教育によって立ち直らせるチャンスを与えます。

人は、もともと汚れの無い状態で生まれてきますが、
社会の悪や悪い環境によって道を誤り悪くなるのだと。
だから、心を再生産して出直しするチャンスを与える、
心を入れ替えれば許されるのです。

もともと悪人ではないのだから、
同情すべき事情を考慮して刑罰を軽くしてやろうと、
情状を酌量しようではないかと・・・。

堕落したり自活能力を失っていたりしていた者が、
まともな社会生活が送れるように・・・、
社会的に役に立たなくなった人に、再教育によって、
もう一度使えるようにする・・。

過失にたいしては、教育と言うチャンスを与えるのが、
日本の社会に属する人にとって、
一般的な生活の習慣、ならわしなのです。

社会的に役に立つように再教育する・・・という考えには、
いろいろな背景があります・・・。

日本では、懲罰を罪の償いとは考えません。
再教育のチャンスと考えます。
社会のすべてがそのようなシステムになっています。

そうするつもりは全く無かったのに、
そうなると予測もしなかったのに、
好ましくない結果をもたらしてしまったのだから・・・。
だからもう一度出直せると・・・。

しかし、
好ましくはなく、悪であることを承知していても、
肉体的な、償いを求められないので、軽い罰則で済まされるので、
くりかえしやってしまう・・。
それが私たちの現実の姿なのです。

”原罪 ”の教えが明確にされているなら。
人間の罪がもたらす結果について明確に解き明かされているなら。

日本人は、自分の思いや言葉や行為や行動について、
根本から見直すことになるかもしれません。
まったく方向性の異なる責任あるものに・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on July 17, 2014.