救いとイエスの死と葬りと復活


 キリスト教がテーマとしている ”救い ”・・・。

 では、いったい何からの救いなのか・・・・。

 キリスト教の信仰において、その基となっている出来事、

 その出来事がなければキリスト教も信仰も生まれなかった出来事、

 イエス・キリストが十字架にかけられ罪人として処刑され、

 葬られ、三日の後に死人のうちから復活・よみがえったという出来事・・・・。

 しかし、その出来事の内容と意味とが、

 あまりにも説明されていないのが日本の現実ではないでしょうか。

 イエス・キリストの十字架の死による購いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とが・・・。

 人間の現実は、戦争や飢餓や貧困・・・。

 人間関係の対立や不和・・・・。

 病苦や金銭苦・・・・・。

 そして、死・・・・・。

 救いとは、苦難や災難や危険や死から救い出され、

 解放されることを意味していることは明白です。

 しかし、聖書は、もっと、さらに・・・・。

 実に恐ろしく経験したくない、

 人間にとって最も大きな苦難や災難が待ちかまえていると語っているのです。

 それこそ、この世界を造られた神による裁き・審判のときなのです。

 生きている人も、かつて生きていた人もひとしく、

 神の裁きの座に引き出され、

 生きていたときの行いに応じて裁かれる・・・。

 永遠の命へ移されるのか、

 それとも永遠の苦しみへ落とされるのか・・・・。

 キリスト教がテーマとしてる救いとは、

 神の裁きからの救いのことなのです。

 そうでなければ、

 神のひとり子イエス・キリストが、

 人としてこの世界に来られて、

 私たち人間に代わって、

 神の怒りをその身に引き受けてくださった出来事の意味がなくなってしまうのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・という出来事の内容なのです。

 日々の信仰とは、いったいなんでしょうか。

 難しく言えば、

 彼岸的な目標に向かって、

 ぶれない方向性と態度ではないでしょうか。

 自分の生き方の、はるかかなたに、

 ひとつの、かがやく目標を持ちながら、

 その目標に向かって日々の暮らしの営みをする・・・・。

 その営みとは、家庭生活であれ、ビジネスの現場であれ、

 政治や経済までも、全部ひっくるめてなのです。

 その営みの態度が、

 思いや言葉や行為や行動となって、

 表にあらわれてくる・・・・。

 神の裁きからの救いと、

 イエス・キリストの死と葬りと復活とが解き明かされてこそ、

 キリスト教の信仰の意味と内容とが明らかとなるのです。


 「 なぜなら、わたしたちは皆、

 キリストのさばきの座の前にあらわれ、

 善であれ悪であれ、

 自分の行ったことに応じて、

 それぞれ報いを受けねばならないからである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)

 「 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、

 自分の心で、

 神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、

 あなたは救われる。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 22 July 2011.