叱るだけが能ではない


 日本のキリスト教々会をとりまく人間的な特徴的な事情として・・・。

 自分の人生や、自分自身、そして自分自身のものの考え方ややり方の正しさを、

 自分の義を得ようとして教会にやってくる、

 自分の存在証明を得ようと試みているかのように・・・。

 当然のように証明や保証を期待して・・・・。

 だから教会としては、腫れ物にでも触るような対応を強いられるのかもしれない。

 自分の正義を期待して教会にやってきた人にたいして、

 ”あなたは罪人だ!!”

 ”だからキリストによる救いが必要なのだ ”とは言えないからだ・・・。


 だがしかし、

 イエスは、すべての人の罪のために、その命をささげられたのだ、

 すべての人の罪と死から救うために・・・、

 すべての人の罪を背負い、すべての人の身代わりとして、罪人として処刑されたのだから。

 死の恐怖から解きはなつために・・・。

 その出来事こそ福音の中身なのだ、

 この事実こそ教会が長い歴史をかけた語り伝えてきたものなのだから。


 「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、

 罪と死との原理から、あなたを解放したからです。」

  (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙8章2節・新改訳)


 教会が伝えようとしている中身と、

 教会にやってくる人たちの求めや、得たいと願っている中身との違いにおどろかされます。

 当然です。神の心を忘れてしまった愚かで罪深い存在なのだから。

 しかし、仮に・・・、

 まわりに怒りをぶつける問題児がいたとして、

 その問題児を正すために・・・、

 ただ叱責したり体罰したりするだけでは、問題児の心は解放されまい。

 問題児のところまでおりて行って、ともに時間や場を共有することが・・・、

 そこには犠牲が伴うであろう・・・、

 その問題児のためにすべてを投げ出してやらなければ、その子の心は砕けまい。


 キリスト・イエスも、私たちのところまで降りて来られたのだ。

 神のあり方を捨てることができないとは考えないで・・・・。


 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

  (新約聖書・ピリピの信徒へのパウロの手紙2章6〜8節・新改訳)


 キリストは、神でありながら、神としてのあり方に固執せず、

 自分を低くして、人間と同じようになり、

 私たちのために、私たちのところに来られたのです。

 だからこそ教会では、

 神のひとり子イエスが、

 私たちのために身代わりとしてご自身をささげるために、この世界に来られたことを・・・、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事を、

 くりかえしくりかえし語られなければならないのです。

 イエス・キリストが私たちの身近におられることを明らかにするために。

 それが、私たちの存在の証明なのだから・・・。

 私たちは、神の形にかたどられて造られたのだから。

 この世界を造られた創造主から離れて、

 決して被造物である私たちの存在理由を確認できはしないのだから。


北白川 スー

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Wrote up: 23 April 2008.