福音から遠い日本



”福音 ”を受け入れた人が、クリスチャンとなり、
ものへの考え方を変え、態度をあらため、
人生の方向を転じて行くわけです。

福音すなわち、神の啓示が明らかにされるということは、
私たちに神の啓示が与えられたことを意味し、
その啓示を受け入れ、承認することを求めるのです。
それが信仰です。
難しく言えば、神の啓示を信仰によって認識することです。
神の啓示を省いた信仰など在り得ません。しかし現実には存在しますが。

この日本、クリスチャンが少数派の社会ということは、
決して日本人がキリスト教を避けているのではなく、
福音が解き明かされていないことを明かしているわけです。

福音は、すべての人たちに向けられたメッセージですから、
限られた人しか福音は理解されないというものではないはずです。

福音が説かれ解き明かされ続けていれば、
クリスチャンの数も増え続けるものなのです。

聖書・バイブルが語っている福音とは、
まことに、すべての人々に、
創造的な活動をうながすものだからです。

視線を変え、物事を客観視し、
特定の人の利益を求めるのではなく、
見方が公正となり、論理的な考え方を求めます。

気持ちを落ち着けて、注意深く、自分を見つめ、まわりを見て、
何をなすべきかを考え、決断し、実行させるものなのです。

決して今にとどまるものでもなく、
自らを疑うことを求めます。
決して自らを肯定するものでもありません。
むしろ、強く方向転換を求めるものなのです。

福音とは何でしょうか・・・・。

イエス・キリストが十字架に死に、葬られ、
3日の後に死人のうちから復活したという出来事です。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。

私たちの死と復活が語られているのです。

何に死に、何に復活するのでしょうか。

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章5節・新共同訳聖書)

人は、多くの場合・・・、自分を信じるあまり、
そこから抜け出すことができないでいます。
そうしなければならないと自分を縛っているものから解き放つものこそ、
福音なのです。

クリスチャンであっても、
自分への過信から、自分を縛ってしまって、
抜け出せなくしています。
クリスチャン的律法に縛られてはいませんか。
救いは、行ないによって得るものではなく信仰から来ます・・・。

自分の力や知恵では、救いを見出すことはできません。
多くの人は、自分の力や知恵で救いを手にすることができると信じています。
だから、苦しまなければならないのです。

それは、人間の生まれながらに負っている性質がそうさせるのです。

日本では特に、人間関係の中に希望を見い出そうとします。
しかし、結果は、常に混乱と失望しか残りません。
無視されることを恐れ、無視でもされれば攻撃さえします。

福音は、そのような人間性を死にわたし、
新たな人間性を手にすることなのです。

日本人は、なぜ楽になることを求めないのでしょうか。
労苦は人を消耗させるだけです。

罪の報いは死です。
ならば、その罪を死にわたせばいいのです。

「 ・・・・・罪に対して死んだわたしたちが、
どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章2・8節・新共同訳聖書)

人間関係ではなく、
神との平安こそ、まことの平安をもたらすものなのです。


北白川 スー

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Wrote up on November 05, 2014.